第4章

 病室のドアが押し開けられた。

 智秋が入ってくる。腕に抱えているのは、帝国音楽学院の紋章が刻まれた、年次ピアノコンクール優勝のトロフィー。

「見て、これ。かわいい妹へ」

 智秋は、本来なら私のものだったはずのトロフィーを、ドン、とベッド脇のテーブルに置いた。

 私はトロフィーを見なかった。視線は、彼女の腰のあたりに釘づけになっていた。

 ワンピースの下、下腹部がわずかにふくらんでいる。彼女の手は無意識を装いながらもそこをかばうように添えられていて、まるで勝利の果実でも守っているみたいだった。

「……お腹……」

 かすれた声が出る。

「子どもの父親は、誰なの?」

 智秋の動きが、ぴたりと止まった。次いで、口元の笑みがゆっくりと引き伸ばされる。

「知りたい? ここ、消毒の匂いが気持ち悪い。外、歩こ?」

 軽い調子で言いながら、智秋は続けた。

「裕士と悠人は、私の在籍手続きの書類を取りに行ってるの。今なら誰にも邪魔されないで『姉妹の内緒話』ができるでしょ」

 私は、彼女に連れ出されるまま病院を出た。

 底なしの悪意が、いったいどこまで沈んでいくのか——知りたくてたまらなかった。

 三十分後、タクシーは帝国音楽学院の校舎前で停まった。

 智秋は私の車椅子を押し、三階の突き当たりへ向かう。大理石張りの急な螺旋階段。その入口——この階は監視の死角だった。

 彼女は私に、立つよう目で促した。

「ねえ、聞いたよね。誰の子なのかって」

 智秋が顔を寄せてくる。

 そして、わずかに突き出た下腹部を指でとん、と叩いた。

「昨日、あなたが血の海であの出来損ないを失ったとき、私はパーティーで最高級のドン・ペリニヨンを飲んでた。瑞穂、まさか思ってるの? 事故の日、練習室の廊下で見たものが、全部真実だって」

 私は目を見開いた。息が止まり、胸の奥に、黒い予感がどっと湧く。

 智秋がくすくす笑う。がらんとした階段室に反響する声は、舌をちらつかせる毒蛇みたいにまとわりついた。

「私の子も、裕士の子。あなたのお腹の中で踏み潰された『厄介ごと』より、きっちり一か月早くできてたの」

 全身が激しく震えた。指先が痙攣して、言うことをきかない。折れた骨でも構わない、今すぐこの女の偽善の面を引き裂いてやりたい——!

 そのとき、一階の玄関口から、慌ただしい革靴の足音が響いた。悠人と裕士の会話が反響してくる。戻ってきたのだ。

 智秋の目つきが、瞬時に変わった。挑発に満ちていた顔が、一瞬で、極度の恐怖と無力さに歪む。

「なにするの……!? やめて! 瑞穂、お願い、私の子に触らないで!」

 凄まじい悲鳴が、校舎じゅうに突き刺さった。

 私が反応するより早く、智秋は手を伸ばし、ギプスの巻かれた私の小腕をがっちり掴んだ。そして自分の肩へ乱暴に引き寄せる。次の瞬間、私に突き飛ばされたかのように、身体を大きく仰け反らせた。

 ——智秋が、急な大理石の階段を転がり落ちていくのが見えた。

 私はその場で硬直した。血が、全身で凍りつく。

「智秋!」

「なんてことだ!」

 階段の踊り場に駆けつけた裕士と悠人が、その光景を『目撃』する。裕士は正気を失ったように飛びつき、智秋を強く抱きしめた。

「お腹が……裕士、私のお腹が痛い……」

 智秋は真っ青な顔で、涙をぽろぽろとこぼす。震える手を持ち上げ、冷たい空気を裂くようにして、階段の上——生ける屍みたいに立ち尽くす私を指さした。

「瑞穂が……私が優勝したの、妬んで……あなたの子を妊娠したのも、妬んで……」

「私、ただ気晴らしに学院まで一緒に来ようって言っただけなのに……この子を、あの子の道連れにするって……わざと、突き落としたの!」

「違う!」

 私は叫んだ。

「この悪魔! 姉だぞ、実の姉に何をしてる!」

 悠人が怒りに顔を上げる。眼底に、どす黒い赤が滲んだ。

 裕士が、ゆっくり顔を上げた。

 かつて私に、幾度も優しい約束を囁いた深い瞳。そこにあったのは、隠しもしない嫌悪と——氷のように冷たい殺意だけだった。

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