第1章

 サイラスはコートを脱ぎながら大股で近づき、両腕を広げて私を抱きしめた。優しくて、頼もしくて、いつもの温度。

 その瞬間、私は本能で抱き返していた。

 ぎゅっと目を閉じ、頭の中で必死に言い聞かせる。生きてる。彼は生きてる。私の夫が、私を抱いてる――!

 けれど。

 目を開けると、暖炉の隅。灰青色の微光を放つ残霊は、まだそこにいた。

 影の中で身を縮めたまま、私とこの男の抱擁を、ねっとりと見つめている。

 心が、少しずつ、底のない穴へ沈んでいった。

 もし壁際の魂こそが、本物のサイラスだとしたら。

 いま私を抱いているこれは――何?

 変身する怪物? 心を奪う悪魔? それとも、極めて高位の黒魔法による偽装……?

 喉に砕けたガラスを詰め込まれたみたいで、声が出ない。

「エイリー? どうした?」

 私の硬直に気づいたのか、彼は少しだけ距離をとり、覗き込む。

 温かな手が自然に額へ置かれた。

「冷や汗がすごい。寒気止めの魔薬、また飲み忘れた? 熱でも出たのか」

 溢れそうなほどの心配が、瞳に詰まっている。

 私は舌先を強く噛んだ。痛みで、胸の中の波を無理やり沈める。

 ――迂闊に刺激するな。藪をつついて蛇を出すな。

 息を吸い込み、いつもの笑顔を力で作った。

「大丈夫」私は軽くスカートの裾を払ってみせる。

「ほら、早く食べよ。午後ずっと準備してたの。もう冷めちゃう」

 椅子を引いて座り、ステーキをひと切れ口に押し込む。味がしない。蝋を噛んでいるみたいだ。

 彼は私を見つめ、目の奥の疑いが少し薄れたらしい。

 新しいグラスを取り、ワインを注いでくれる。

「組合のほうで急なトラブルがあってさ。遅くなった罰に、三杯飲む。世界一の妻に謝罪だ」

 笑いながら杯を掲げる。

 私はさりげなく切り出した。

「お酒といえば。覚えてる? 高校のクリスマスの夜、あなた、お父さんが地下室に隠してたお酒をこっそり飲んだこと」

 彼の目を、逃がさず見た。

 グラスを持つ手が、わずかに止まる。

 それから、ふっと息を漏らして笑った。

「忘れるわけないだろ」首を振り、甘やかな眼差しになる。

「父さんの秘蔵の『血月の蜂蜜酒』だ」

「お前が一口だけって言い張ってさ。止めても止めても聞かない。で、どうなった? 二杯で酔っぱらって、防御呪文もまともに言えなくなった」

「そのあと、どうしたっけ」銀のフォークを握る手が、かすかに震えるのを隠せない。

「吐いた」彼は困ったように肩をすくめる。

「買ったばかりの白いシャツに、見事に全部」

 そう言って近づき、いつもの癖で私の髪をくしゃりと撫でた。

「家まで送ったら、お前の母さんがあの高級魔薬素材の酒の匂いを嗅いで、俺が飲ませたと思い込んでさ。火球術で追い出されそうになった」

「お前が勝手に口が馳せただけだなんて言えるわけなくて、俺が丸ごと怒られた」

 胸がきゅっと縮む。

 この出来事を知っているのは、私たち二人だけだった。

「その時、あなた何を着てた?」しつこいと分かっていても、止められない。

「白いシャツだよ。襟元に、お前の家のアイリスの地紋が刺繍で入ってた」彼は笑う。

「匂いが取れなくて、三時間も洗った」

 身をかがめて、覗き込む。

「急にどうした?」

 私はまぶたを伏せ、熱い視線から逃げたまま答えない。

 全部、合っている。

 取るに足らない刺繍の細部まで、彼は正確に覚えている。

 けれど、暖炉の隅を視界の端で盗み見ると、灰青の残霊はなおも私を睨みつけていた。

 私は咳払いし、視線をサイラスへ戻す。少し照れたふりの声を作った。

「今日、お母さんから電話があったの」

「母さん、何て?」彼は向かいに座り、私の皿の肉を手際よく切り分けてくれる。

「急に、私のローズマリー焼きの雷鳥が食べたくなったって」

 私はわざと、まっすぐ彼を見た。

 彼はすぐ吹き出し、胸まで揺らして笑った。

「いいよ。食後に焼く。明日届けよう」

「あなたが作るの?」眉を上げると。

 彼は切り分けたステーキを私の皿に移し、滴りそうなほど優しい目をした。

「ずっと俺が作ってるだろ。うちの鈍くて可愛い子」

「昔、お前が母さんに気に入られたくて料理すると言い出した。で、どうなった? 台所を吹き飛ばしかけた。結局俺がその場で覚えて、オーブンで手に水ぶくれ作った」

「最初なんて、マンドラゴラの根の粉を塩と間違えて入れたしな。俺が一口食べたら、顔色が緑になった。お前は『おいしい』って強情張ってたけど」

 彼は肩を揺らして笑う。

「煤だらけの顔でさ。俺、なんでこんな可愛い小魔女に惚れたんだろって思った」

「しかも母さんには、お前が焼いたって言ってたよな」鼻先を軽くつまむ。

「母さんが会う人会う人に『エイリーの料理は最高』って褒めるから、本当の料理人の俺も訂正できなかった」

「任せて。明日の分、いま焼いとく」手の甲をとん、と叩かれた。

 私はもう何も言えなかった。細部まで、全部一致している。

 それなのに、幽霊はいる。

 ……私の霊視が、おかしくなった?

 ありえない。血の純度には自信がある。こういうのを見誤ったことなんて、一度もない。

 食事を終えると、彼は本当にエプロンを結び、まっすぐ台所へ入っていった。

 私は後を追い、キッチンの扉枠にもたれて黙って見守る。

 雷鳥の処理。ローズマリーと秘伝の香辛料をすり込む手つき。腹にリンゴの欠片を詰める角度まで――昔と同じ。

 ほどなく、魔法香料の濃厚な匂いが、懐かしさごと漂ってきた。

 彼が振り返り、眉を小さく上げて笑う。

「外で待ってろ。すぐできる」

 一時間後、こんがり黄金色のロースト雷鳥が中島に置かれた。

 私は近づき、小さく裂いた肉を口に入れる。

 香りが弾ける。火入れは完璧。味も、寸分違わない。

「うまい?」彼が顔を寄せ、深い瞳をきらきらさせて覗き込む。

 私は喉を鳴らして飲み込み、頷いた。

「……うん。いつもの味」

 彼は満足そうに笑い、雷鳥を保存容器に詰め、鮮度維持の結界つき冷蔵庫へしまう。

 それから振り返り、当然のように私の手を取った。

 乾いた掌。温かい熱。私が抗えない安心の感触。

「よし。今日は記念日の準備で疲れただろ。休もう、エイリー」

 少し屈んだ吐息が、耳朶をくすぐる。

 私は広い胸に身を預け、胸郭の内側で打つ、落ち着いた心音を聞いた。

「……うん」小さく答える。

 目を閉じる。

 あなたが人間でも、妖精でも、禁忌の魔法が生んだ何かでも。

 私は必ず、真相に辿り着く。

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