紹介
魔女の末裔として、死者を隔てる薄布の向こう側を覗ける。人の世をさまよう魂も、魔法が残した痕跡も――見えてしまう。
ずっと思っていた。この才能は、痛くも痒くもない秘密にすぎないのだと。
――私たちの結婚五周年、その夜までは。
長い食卓の上。最後の、ベルベットみたいな銀の燭台に火を点した。
ゆらり、と炎が揺れた瞬間。反射的に霊視が開き、暖炉の影へ視線が滑る。
……そこに、魂がいた。
影の奥で身を丸めているのは、私の夫――サイラス・ブラックウッド。
血の気が引いた。
どういうこと? サイラスが、死んだ……?
震える指でスマホを探り、転げるように彼の番号を押そうとする。通話ボタンに触れるより先に。残滓を祓う呪文を紡ぐより先に。
「カチャ」
扉が開いた。
雨の匂いをまるごと連れて、サイラスが入ってくる。
「ごめん、エイリー。遅くなった」
もしサイラスが死んでいるなら。
目の前で、彼の皮を被っているこの男は――いったい、誰?
チャプター 1
サイラスはコートを脱ぎながら大股で近づき、両腕を広げて私を抱きしめた。優しくて、頼もしくて、いつもの温度。
その瞬間、私は本能で抱き返していた。
ぎゅっと目を閉じ、頭の中で必死に言い聞かせる。生きてる。彼は生きてる。私の夫が、私を抱いてる――!
けれど。
目を開けると、暖炉の隅。灰青色の微光を放つ残霊は、まだそこにいた。
影の中で身を縮めたまま、私とこの男の抱擁を、ねっとりと見つめている。
心が、少しずつ、底のない穴へ沈んでいった。
もし壁際の魂こそが、本物のサイラスだとしたら。
いま私を抱いているこれは――何?
変身する怪物? 心を奪う悪魔? それとも、極めて高位の黒魔法による偽装……?
喉に砕けたガラスを詰め込まれたみたいで、声が出ない。
「エイリー? どうした?」
私の硬直に気づいたのか、彼は少しだけ距離をとり、覗き込む。
温かな手が自然に額へ置かれた。
「冷や汗がすごい。寒気止めの魔薬、また飲み忘れた? 熱でも出たのか」
溢れそうなほどの心配が、瞳に詰まっている。
私は舌先を強く噛んだ。痛みで、胸の中の波を無理やり沈める。
――迂闊に刺激するな。藪をつついて蛇を出すな。
息を吸い込み、いつもの笑顔を力で作った。
「大丈夫」私は軽くスカートの裾を払ってみせる。
「ほら、早く食べよ。午後ずっと準備してたの。もう冷めちゃう」
椅子を引いて座り、ステーキをひと切れ口に押し込む。味がしない。蝋を噛んでいるみたいだ。
彼は私を見つめ、目の奥の疑いが少し薄れたらしい。
新しいグラスを取り、ワインを注いでくれる。
「組合のほうで急なトラブルがあってさ。遅くなった罰に、三杯飲む。世界一の妻に謝罪だ」
笑いながら杯を掲げる。
私はさりげなく切り出した。
「お酒といえば。覚えてる? 高校のクリスマスの夜、あなた、お父さんが地下室に隠してたお酒をこっそり飲んだこと」
彼の目を、逃がさず見た。
グラスを持つ手が、わずかに止まる。
それから、ふっと息を漏らして笑った。
「忘れるわけないだろ」首を振り、甘やかな眼差しになる。
「父さんの秘蔵の『血月の蜂蜜酒』だ」
「お前が一口だけって言い張ってさ。止めても止めても聞かない。で、どうなった? 二杯で酔っぱらって、防御呪文もまともに言えなくなった」
「そのあと、どうしたっけ」銀のフォークを握る手が、かすかに震えるのを隠せない。
「吐いた」彼は困ったように肩をすくめる。
「買ったばかりの白いシャツに、見事に全部」
そう言って近づき、いつもの癖で私の髪をくしゃりと撫でた。
「家まで送ったら、お前の母さんがあの高級魔薬素材の酒の匂いを嗅いで、俺が飲ませたと思い込んでさ。火球術で追い出されそうになった」
「お前が勝手に口が馳せただけだなんて言えるわけなくて、俺が丸ごと怒られた」
胸がきゅっと縮む。
この出来事を知っているのは、私たち二人だけだった。
「その時、あなた何を着てた?」しつこいと分かっていても、止められない。
「白いシャツだよ。襟元に、お前の家のアイリスの地紋が刺繍で入ってた」彼は笑う。
「匂いが取れなくて、三時間も洗った」
身をかがめて、覗き込む。
「急にどうした?」
私はまぶたを伏せ、熱い視線から逃げたまま答えない。
全部、合っている。
取るに足らない刺繍の細部まで、彼は正確に覚えている。
けれど、暖炉の隅を視界の端で盗み見ると、灰青の残霊はなおも私を睨みつけていた。
私は咳払いし、視線をサイラスへ戻す。少し照れたふりの声を作った。
「今日、お母さんから電話があったの」
「母さん、何て?」彼は向かいに座り、私の皿の肉を手際よく切り分けてくれる。
「急に、私のローズマリー焼きの雷鳥が食べたくなったって」
私はわざと、まっすぐ彼を見た。
彼はすぐ吹き出し、胸まで揺らして笑った。
「いいよ。食後に焼く。明日届けよう」
「あなたが作るの?」眉を上げると。
彼は切り分けたステーキを私の皿に移し、滴りそうなほど優しい目をした。
「ずっと俺が作ってるだろ。うちの鈍くて可愛い子」
「昔、お前が母さんに気に入られたくて料理すると言い出した。で、どうなった? 台所を吹き飛ばしかけた。結局俺がその場で覚えて、オーブンで手に水ぶくれ作った」
「最初なんて、マンドラゴラの根の粉を塩と間違えて入れたしな。俺が一口食べたら、顔色が緑になった。お前は『おいしい』って強情張ってたけど」
彼は肩を揺らして笑う。
「煤だらけの顔でさ。俺、なんでこんな可愛い小魔女に惚れたんだろって思った」
「しかも母さんには、お前が焼いたって言ってたよな」鼻先を軽くつまむ。
「母さんが会う人会う人に『エイリーの料理は最高』って褒めるから、本当の料理人の俺も訂正できなかった」
「任せて。明日の分、いま焼いとく」手の甲をとん、と叩かれた。
私はもう何も言えなかった。細部まで、全部一致している。
それなのに、幽霊はいる。
……私の霊視が、おかしくなった?
ありえない。血の純度には自信がある。こういうのを見誤ったことなんて、一度もない。
食事を終えると、彼は本当にエプロンを結び、まっすぐ台所へ入っていった。
私は後を追い、キッチンの扉枠にもたれて黙って見守る。
雷鳥の処理。ローズマリーと秘伝の香辛料をすり込む手つき。腹にリンゴの欠片を詰める角度まで――昔と同じ。
ほどなく、魔法香料の濃厚な匂いが、懐かしさごと漂ってきた。
彼が振り返り、眉を小さく上げて笑う。
「外で待ってろ。すぐできる」
一時間後、こんがり黄金色のロースト雷鳥が中島に置かれた。
私は近づき、小さく裂いた肉を口に入れる。
香りが弾ける。火入れは完璧。味も、寸分違わない。
「うまい?」彼が顔を寄せ、深い瞳をきらきらさせて覗き込む。
私は喉を鳴らして飲み込み、頷いた。
「……うん。いつもの味」
彼は満足そうに笑い、雷鳥を保存容器に詰め、鮮度維持の結界つき冷蔵庫へしまう。
それから振り返り、当然のように私の手を取った。
乾いた掌。温かい熱。私が抗えない安心の感触。
「よし。今日は記念日の準備で疲れただろ。休もう、エイリー」
少し屈んだ吐息が、耳朶をくすぐる。
私は広い胸に身を預け、胸郭の内側で打つ、落ち着いた心音を聞いた。
「……うん」小さく答える。
目を閉じる。
あなたが人間でも、妖精でも、禁忌の魔法が生んだ何かでも。
私は必ず、真相に辿り着く。
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さあ、復讐劇の始まりよ。私を「可哀想な犠牲者」だと思っていた報い、その身に刻ませてあげる。













