第2章
サイラスのあとに続いて、主寝室へ入った。
あの灰青色の魂も、息をする音ひとつ立てずに、するりとついてくる。
反射的に視線を逸らす。喉がからからに乾き、ひりつくほど痛かった。
サイラスはベッド脇へ行くと、手慣れた仕草で掛け布団をぱっと広げ、私がいつも眠る側の枕をぽんぽんと叩く。
「ほら、エイリー、横になって」
振り返った彼の額に、金色の細かな前髪が落ちた。
ぎこちなく身体をずらし、私は彼の隣へ横たわる。
天井の灯りが消える。残ったのは、暖かな橙の光を滲ませる魔法水晶灯だけだった。
「エイリー」
彼は横向きになり、片手で頭を支えたまま私を見つめる。
「今夜、どうした? 何か悩み事でもあるのか?」
「ないよ」天井の複雑な装飾から目を離せない。
「ただ、ギルドの仕事がきつくて……」
彼は小さく息を吐き、温かな大きな手で私の手をぎゅっと包み込んだ。
「疲れたなら休め。辞めてもいい。俺が養える」
掌は焼けるほど熱いのに、声は低く、優しい。
それでも胸の奥は、見えない手にぎゅっと握り潰されるみたいだった。
視界の端で、灰青色の残り魂が、重なった私たちの手を絶望の目で見つめている。
私は深く息を吸った。
普通の思い出じゃ綻びが見えない。なら――いちばん極端な方法で確かめる。
勢いよく上体を起こし、ベッドサイドの引き出しからレターオープナーを取り出した。
刃は本物のコールドアイアン。
この世界で、コールドアイアンはすべての妖精と換生霊にとって致命の天敵だ。触れれば、魂を生きたまま炎で炙られるような激痛が走る。
「サイラス、これ……覚えてる?」
私はそれを彼の目の前へ掲げた。
「もちろん」彼は即答した。
「君の十八歳の誕生日に贈った」
そして迷いなく手を伸ばし、コールドアイアンのレターオープナーを受け取る。
避けもしない。震えもしない。
それどころか、致命の刃をしっかり握り、親指の腹で柄をそっと撫でた。
「この付呪のコールドアイアンを買うために、三か月分の給料を丸ごと貯めた。ダイアゴン横丁のいちばん奥の闇市まで走ってな。誰かに奪われるんじゃないかって、ずっと肩に力が入ってた」
微笑みながら、彼は私を見る。
「じゃあ、箱に入れた羊皮紙のメモ、何て書いたかも覚えてる?」追い詰めるみたいに言ってしまう。声が勝手に震えた。
「『古いもの集めが好きだろ。護身用に。誕生日おめでとう』」
彼は自嘲気味に口元を歪める。
「本当は『愛してる』って書きたかった。でも、怖くて書けなかった」
「……じゃあ、私の返事は?」
「返事はなかった」レターオープナーをそっと置き、息が詰まりそうなほど優しい目で言う。
「でも翌日、俺の魔法薬学の教科書に、ハニーデュークスの菓子を丸ごと一箱、挟んでくれただろ。嬉しくて授業が頭に入らなくてさ。危うく坩堝を爆発させるところだった」
当たってる。
坩堝を爆発させかけた、あの小さな小さな瑕疵まで、完璧に。
彼は刃を引き上げ、そこに刻まれた極小の二つのルーンを指先で示した。
「待ってる」
囁くように、その意味を読み上げる。
「この文字を刻むために、付呪用の刻刀で手まで切った」
彼が人さし指を差し出す。
指腹に、薄く残った古い傷痕が確かにあった。
「……だったら、なんでこのナイフ、ずっと使ってないの?」身体の芯が冷えていく。感情が崩れそうだった。
「君が、もったいないって言った」彼は私の目をまっすぐ見た。
「『結婚の日まで取っておいて、その日に親友たちの祝福の手紙を全部これで開けるんだ』って」
私はぎゅっと目を閉じた。
コールドアイアンを握る彼の手が、もう見られない。
奪い取るようにレターオープナーを引ったくり、引き出しへ放り込んだ。まるで、熱い焼き鏝でも捨てるみたいに。
「記憶力いいね」そのまま横になり、顔を枕の影へ埋める。
「そんな昔のことまで覚えてるなんて」
彼は低く笑い、私の髪をくしゃりと撫でた。
「君のこと、覚えてないわけがないだろ」
そうだ。全部、覚えてる。
完璧すぎる記憶。
「じゃあさ、覚えてるならもう一つ。子どもの頃、チャールズ川のほとりで遊んだよね?」
彼は少し考えてから言った。
「覚えてる。ボストンの夏がやけに暑かった年だ。君、川でウォーターインプを捕まえるって聞かなくて」
「そのあと、あなたが川に落ちて、私が引っ張り上げた。あのとき本当に情けなかったよね」
私は彼の表情の微細な揺れに釘付けになった。逃さない。息もしない。
致命的な罠。
落ちたのは私だ。助けたのは彼だ。
もしここで私に合わせて続きを言えば――彼は欠けた記憶しか持たない偽物だ。
彼は一瞬、明らかに固まった。
次の瞬間、むっとした顔で私の額を指で弾く。
「エイリー、寝ぼけてるのか? 落ちたのは君だろ。俺が飛び込んで引き上げたんだ」
はぁ、と彼は息を吐く。
「何口も水を飲んで、岸で泥だらけになって泣きじゃくってさ。どう宥めても止まらなかった」
私は口を開いたまま、言葉が喉でつかえた。
また、当てた。
完全に動けなくなる。
嘘が、一本残らず、正確にへし折られていく。
「寝ろ。変なこと考えるな」
彼は溜息まじりに腕を伸ばし、私を温かな胸へぎゅっと閉じ込めた。
「今日はなんだかおかしい。冷たい風に当たったのか?」
彼の顎が自然に私の頭頂に乗り、腕が腰を囲う。
抱き締める強さまで、過去五年と寸分違わない。
「……ごめん」彼の胸に顔を埋める。声が震えてどうしようもない。
「たぶん、疲れてるだけ」
「いい。休め」
優しい声。
私はゆっくり目を閉じた。
彼は寝返りを打ち、いつもの癖で、さらに少し強く私を抱き寄せる。
私は目を開けた。
彼の広い肩越しに視線を投げる。
灰青色の残り魂は、化粧台の影でまだ身を縮めたまま――静かに、執拗に、私とこの完璧な男を見つめていた。
私は、いったい誰を信じればいい?
