第3章
息の詰まるような日々が、数日続いた。
手がかりは何ひとつ掴めないまま、胸の奥の恐怖だけが雪玉みたいに膨らんでいく。
家にいるかぎり、あの灰青色の残り霊は影のようについて回った。
何も喋らない。ただ、妙な目つきでじっと、執拗に私を見据えてくる。
そして——今朝。
サイラスは姿見の前に立ち、濃い赤のネクタイを、糊の利いたシャツの襟元にきっちり収めていた。鏡越しに私を一瞥し、眉をわずかに寄せる。
「昨夜も眠れなかったのか?」
「うん」こめかみの痛みを揉みながら、疲れ切った声で言う。
「一晩じゅう悪夢だった」
サイラスは向き直り、最後のボタンを留めると、大股で歩いてきてベッドの端に腰を下ろした。
「エイリー、話がある」
「なに?」
「ニューオーリンズ行きの航空券を取った」温かい掌が、氷みたいに冷えた私の指を包む。
「南部で大きな高位の魔女集会があるだろ。驚かせたくてさ。でも魔法工会のほうで急に厄介な案件が出て、俺は動けない。先に行ってくれ。三日後、片がついたらすぐ飛んで合流する」
私は言葉を失った。
結婚してから、彼は私ひとりで遠出するのを一度だって安心したことがない。たとえ魔女工会の定例の交流会程度でも。
「どうして急に……」
「最近のお前を見てると、神経が張り詰めすぎてる。弓を引き絞ったみたいに」彼は痛ましそうに頬へ手を添え、指先で私の目尻をそっとなぞった。
「ニューオーリンズで気分転換しろ。日差しもいい。工会の件が片づいたら、すぐに俺が行く」
その瞳の奥の深い情に、胸がどくんと跳ねた。
ボストンを離れる——それは、試すには絶好の機会かもしれない。
私は小さくうなずいた。
「……わかった」
サイラスはすぐ立ち上がり、荷造りを始めた。
私はガウンを羽織ったまま後を追い、ウォークインクローゼットの扉枠にもたれて静かに見守る。
彼の動きは手際がいい。クローゼットの奥から、私がいちばんよく着るレトロな絹のロングドレスを取り出し、きっちり畳む。
次は日焼け止めの魔薬、つばの広い帽子、常備している鎮静の薬草。
それだけじゃない。金糸の刺繍が入った、私がいつも使う絹のアイマスクまで、一つ一つ丁寧にスーツケースへ収めていく。
「ニューオーリンズは今、暑い。薄手を多めに。けど夜は湿気が重いから、涼しいって言って毛布なしで寝るなよ」ぶつぶつ言いながら、手は止まらない。
「お前、胃が敏感だろ。生姜汁と甘草を入れたクッキー、焼いて鞄に入れといた。小腹が空いたらそれで繋げ」
広い背中が忙しく動くのを見ているうちに、勝手に目の奥が熱くなった。
こんな些細なことまで、全部覚えている。
「それと、前に研究したいって言ってた中世の黒魔術防御の古い文献、タブレットに入れといた。機内で暇なら読め」
振り返って、眩しいくらいの笑顔。
私は視線を落とし、ガウンの紐を指が白くなるほど強く捻った。
彼が完璧で、行き届いていればいるほど、私は神経質な最低の人間みたいに思えてくる。
もし化け物の偽装なら——ここまで、できるはずがない。
扉のところで固まったままの私に気づいて、サイラスが近づき、私の目の前で手をひらひらさせた。
「ほら、ぼさっとするなよ、俺の小さな魔女」彼は重いスーツケースを片手で持ち上げる。
「行こう。空港まで送る」
自然に手を取られ、引かれるまま玄関を出る。
扉を閉める、その瞬間。私は素早く振り返った。
がらんとした廊下。灰青色の魂は、ついてきていない。
あれはまだ、暖炉の陰に身を縮めたまま、冷え切った目で私が出ていくのを見送っていた。
胸の奥から、大きく息が抜けた。
やっぱり——最近のストレスで、魔力が乱れて見えた幻だったのかもしれない。
道中、サイラスは運転しながら、右手でずっと私の手を強く握っていた。ニューオーリンズの名物料理の話を、途切れ途切れにしてくる。
私は車窓の向こう、流れていくボストンの街並みを眺めながら、心の中がぐちゃぐちゃに絡まっていくのを感じていた。
空港に着くと、彼は慣れた手つきで荷物を預け、搭乗券をまっすぐ私の手に差し込む。
「着いたら、真っ先に電話しろ」
「うん」
サイラスは私を引き寄せ、強く抱きしめた。顎が親しげに私の首筋へ落ちて、深く息を吸う。
「楽しんでこい、エイリー」
保安検査の通路に入ってから、私は堪えきれず振り返った。
ガラス扉の向こうで、彼の長身が立っている。優しく手を振る姿。
鼻の奥がつんと痛んだ。
彼はこんなにいい人だ。ここに生きて立っていて、体温は熱く、鼓動だって確かにある。それなのに私は、いちばん残酷な想像で彼を試そうとしていた。
目を閉じ、心の中で誓う。これが最後。帰ったら、もう二度と疑わない。
機内では窓側の席を選んだ。
エンジンの唸りとともに機体が雲を突き抜ける。私は周囲の隅々まで目を凝らした。あの霊は、来ていない。
戻ったら、本当に高位の治療師に診てもらおう。精神も魔力も、徹底的に検査してもらうべきだ。
胸の底に残る最後の不安を力で押し潰し、彼が入れてくれた古文献を開いて意識を逸らした。
三時間後、飛行機はニューオーリンズに滑るように着陸した。
南部の熱気が、自由の匂いを混ぜて肌にぶつかってくる。
私は真っ先にスマホを開き、メッセージを送った。
「着いたよ。安心して」
ほとんど同時に画面が光る。
「楽しんで。待ってる」
その見慣れた一行を見つめて、私はようやく、心の芯から力が抜けた。
ニューオーリンズの陽光は熱烈で眩しく、南部特有の湿り気を帯びている。
フレンチ・クォーターの石畳を歩けば、周囲はごった返す魔女たち、錬金術師、それに——角を隠している魔法生物までいる。
露店には香辛料と魔薬の刺激臭が渦巻いていた。
私は日差しの下で長く息を吐く。まるで、もう一度生き返ったみたいだった。
街角の占い小屋を写真に撮り、サイラスへ送る。
「ここ、空気まで自由の味がする! 来られなかったの、ほんとにもったいないよ」
またしても、ほとんど瞬時に返ってくる。
「その空気、俺の分まで吸っとけ。会いたい、エイリー」
画面に浮かぶ文字を見て、思わず口元が緩んだ。
彼は変わらない。私を甘やかし尽くす男だ。
私の好みを全部覚えていて、どんな癇癪も受け止めてくれて、無意識の眉間の皺ひとつさえすぐに見つけては宥める。
怪物だとか、変身する何かだとか——そんな疑いは、このニューオーリンズの陽光の前では、滑稽で仕方がなかった。
夜。ニューオーリンズの宿で、私は柔らかな大きなベッドにうつ伏せになり、サイラスにビデオ通話をかけた。
繋がる。
画面の向こうで彼はボストンの家のソファに凭れ、部屋着の柔らかなセーターを着ている。
「今日はどこを回った?」瞳の奥まで笑っていて、声は低く心地いい。
「黒魔術の市場を見てきた。護符売りのゴブリンに、危うく騙されるところだった」楽な体勢に直し、戦利品をひらひらさせる。
「ねえ、いつ来るの? ひとりだと退屈で死にそう」
「もうすぐ、もうすぐ」彼はくすっと笑った。
「ちょっと待ってろ、水を取ってくる」
立ち上がると、彼はスマホを無造作にローテーブルへ置いた。カメラは斜めに、リビングから廊下のほうを映している。
その瞬間——
息が、止まった。
画面の廊下の影に、ゆっくりと輪郭が滲み出す。
灰青色の残り霊——あれだ。
消えていない。まだ、私たちの家にいる。
しかも、変わっていた。
あの鈍くて静かで、隅に縮こまっているだけの虚ろな影じゃない。
今のそれは、顔の造作が極端に歪み、見るに堪えないほど醜く禍々しい。
全身から噴き上がるのは、濃厚で、むき出しの攻撃性を帯びた黒魔術の気配。
両目が、サイラスが消えた方向を、釘付けのように睨み据えている。
嫉妬だ。
狂気じみた、相手を引き裂いて生きたまま呑み込みたいほどの——嫉妬と悪意。
あれは、彼を殺す気だ。
