第4章
「エイリー? どうした?」
サイラスが水の入ったグラスを手に戻ってきて、再び画面の中に収まった。大柄な体がちょうど背後を覆い隠し、そこにいたおぞましい残滓は視界から消える。
「……な、なんでもない。ちょっと電波が悪くて」
全身が風に揺れる木の葉みたいに震える。歯を食いしばって唇を噛み、血の味が舌に滲んだ。
「今日は少し疲れたから、先に寝るね!」
返事を待つ間もなく、私は通話を叩き切った。
スマホがベッドに落ちる。私は跳ね起き、半ば狂ったように上着を掴んで部屋を飛び出した。
悪霊――あれは、はっきりとした殺意を宿した悪霊だ。
もし家の中をうろついていた残り魂がサイラスじゃないのなら、あれはきっと、彼の肉体を乗っ取ろうとする高位の寄生魔に違いない。
今のサイラスは危ない。致命的に危ない。
心臓が、底のない奈落へ沈んでいく。
最速の深夜便まで、あと三時間。
間に合わない。絶対に――間に合わない。
私は人影のない袋小路に駆け込み、指先を噛み切ると、汚れた壁に無理やり危険極まりない州跨ぎの転送血陣を描いた。
ギルドの許可なしの長距離転送なんて、少しでも手順を誤れば空間乱流に裂かれて塵になる。
それでも、そんなこと構っていられない。
「血を契りに、界を裂け――痕跡は残すな!」
炸裂する白光が、私を飲み込んだ。
荒れ狂う魔力が一瞬で内臓を引き裂き、喉の奥が甘くなる。次の瞬間、私は鮮血を吐き散らしていた。
――未明。
私はボストンの自宅の木床に、重たく叩きつけられた。
窓も扉も閉ざされている。
静寂。息が詰まるほどの静寂。
灯りはない。サイラスもいない。あの歪んだ悪霊の気配もない。
あるのはただ、ローテーブルの上に置かれた一杯の水。かすかな湯気が、まだ細く立ち上っていた。
「サイラス!」
私は夢中で全ての部屋を探し回る。
――誰もいない。
無理やり理性を引き戻す。深く息を吸い、胸の奥から心血を一滴搾り出して、魔女の一族が誇る最上位の血脈追跡呪を紡いだ。
「 私を導いて!」
宙に浮いた血滴がぐらぐらと沸き立ち、細い赤い線を引く。そして鋭く、ボストン郊外の方角を指し示した。
私はドアを蹴るように飛び出し、スポーツカーのアクセルを床まで踏み抜く。速度は限界まで跳ね上がり、エンジンの咆哮が深夜の道路の空気を引き裂いた。
追跡呪の赤光は、郊外の荒れ果てた黒い森の縁で止まった。
ここは魔法ギルドが禁域に指定している土地――!
腰まである茨をかき分ける。
枯れた老槐の木が数本立つその下に、強力な結界で封鎖された地下錬金室の入口が隠されていた。
入口から漂うのは、古く、そして邪悪な波動。
残る魔力をかき集め、音もなく結界の一角を溶かす。私は幽霊みたいにすり抜けて中へ潜り込んだ。
湿り気を帯びた暗い石段を降りていく。
通路は長い。壁の魔法松明がゆらゆらと幽緑に瞬き、空気には濃い血臭と、魔薬の苦い匂いがべったりと絡みついていた。
やがて、地下錬金室の扉に辿り着く。
分厚い石扉は半ば開いている。
体が強張り、息を殺したまま、隙間から中を覗く。
怪物はいない。寄生魔もいない。
あるのは床一面に広がる、淡く光る極めて複雑な古代の血紅符文。
そして、あの歪んだ灰青色の悪霊が、巨大な石の祭壇の傍に立ち、祭壇の上の“人”を見下ろしていた。
私はそっと一歩だけ前へにじり寄り、祭壇の光景をはっきりと視界に収めた。
その瞬間、私は口を手で押さえた。涙が決壊する。下唇を噛み抜くほど歯を立てて、ようやく叫び声を飲み込む。
祭壇の上に、ひとりの男が横たわっていた。
紙のように蒼白な顔。閉じられたまぶた。
胸はすでに切り開かれ、心臓の位置が不気味な赤光を放っている――しかも、結晶化が始まっていた。
魔光をちらつかせる無数の導管が体中に刺さり、消えかけの生命兆候をかろうじて繋ぎ止めている。
サイラス……!
魂を抜かれ、今にも砕けそうな人形みたいに、彼はそこに横たわっていた。
そのとき。
廊下の奥から、はっきりとした足音が響いた。
こつ、こつ、こつ……近づいてくる。
私の体は、何万本もの氷の錐で床に縫い付けられたみたいに動かない。首だけをぎこちなく回す。
視界に入ったのは――婆婆ベアトリスだった。
真っ白な髪はいつもより乱れ、頬は涙の跡で濡れている。よろめきながら、彼女は中へ入ってきた。
そして、彼女の傍で支えている男は――
背筋の通った体。見慣れた白いシャツ。
生きているサイラス。
彼はそこに立っていた。眉間に皺を寄せ、目には複雑な色が宿っている。
なのに祭壇の上には、もうひとり――彼とまったく同じ顔をした男が、ゆっくりと死に向かって横たわっている。
……いったい、何が起きているの?
