第8章

「時間は……もうこんな時刻か」

西園寺蓮は腕時計に目を落とした。

「そろそろ行くよ。午後のフライトなんだ。あとのことは焦らなくていい。戻ったら俺が処理する」

一芝居打つだけなら、彼女にとって難しいことではない。

だが、裏回しは彼自身が指揮を執らなければならない。他人任せにするには、あまりにリスクが大きすぎた。

立花柚月は深く考えず、すぐに立ち上がった。

「分かったわ。気をつけて行ってらっしゃい」

彼女も衝動的な行動に出るつもりはない。今はのことが最優先だ。

緊張と焦りが入り混じった彼女の様子を見て、西園寺蓮は呆れたように溜息をついた。

「俺は君の上司じゃないんだ、そんなに緊張する必要はない。数日留守にするが、遅くとも一週間以内には戻る。何かあったら電話してくれ」

「うん」

素直に頷く彼女を見て、西園寺蓮はさらに言いかけた注意を飲み込んだ。

彼は病院を後にした。

車に乗り込むと、七社和也に指示を出す。

「実家へ向かってくれ」

七社和也は頷き、エンジンをかけた。

「フライトは十七時です。チケットの手配は済んでおります」

「ああ」

だが七社和也だけは知っていた。そのチケットは法事で帰省するためのものではなく、R国へ飛ぶためのものだと。

……

西園寺家の邸宅。

リビングのソファでは、の両親が談笑していた。

「ねえ、あの子が好きなのってどんなお嬢さんなのかしら」

「さあな。ガードが堅すぎて分からん」

新聞に目を落としたままの西園寺宏明は、あまり興味がなさそうだ。

妻の西園寺理穂はそんな夫を睨みつけた。

「あなた、息子に関心がなさすぎよ」

西園寺宏明は肩をすくめた。

「関心がないわけじゃない。あいつはもう大人だ、自分の考えがある。芸能界に入ると言った時だって、お前があれだけ反対しても無駄だっただろう」

息子は十六歳を過ぎてからというもの、親の言うことなど聞かなくなった。

確固たる自我が芽生えたということだ。

西園寺理穂は言葉に詰まった。ふと顔を上げると、息子が帰ってきたのが目に入る。

反射的に笑みを浮かべたものの、すぐに表情を引き締め、ふんと鼻を鳴らした。

「あら、帰る家は覚えていたのね」

西園寺蓮は母の隣に座り、小箱を差し出した。

「また物で私を釣ろうとして」

西園寺理穂は口では文句を言いながらも、待ちきれない様子で箱を開けた。

中には氷のような透明感を湛えた、極上の翡翠の腕輪が収められている。

「……まあ、殊勝な心がけだこと」

西園寺蓮は母の笑顔を見ながら、これから言うことが彼女を不機嫌にさせるだろうと分かっていた。それでも言わねばならない。

「今回の法事だけど、俺は帰れない」

西園寺理穂が目を剥いた。

「なんですって?」

西園寺宏明までもが息子を見やり、眉をひそめる。

「法事がどれだけ重要か分かっているのか? 帰らないとはどういうことだ」

西園寺蓮は静かに答えた。

「どうしても外せない用事があるんだ」

「どれほど重要なんだ? 法事よりもか?」

「ああ。人の命に関わる」

父と子は視線を交わし、無言の火花を散らした。

やがて西園寺宏明が新聞を置き、沈吟してから口を開いた。

「お前が戻らなければ、祖父さんは間違いなく不機嫌になるぞ。だが、そこまで腹を決めているのなら、私が何を言っても無駄だろう。自分で決めなさい。後で祖父さんに土下座でもしてくるんだな」

「もちろん」

西園寺理穂は納得がいかない様子だ。

「一体何をしに行くの?」

「人助けさ」

「誰を?」

「大切な人だ」

西園寺理穂はふと、先日息子がある女性と一緒に撮られた写真を思い出した。

「もしかして、あの立花柚月とかいう女?」

「違う」

彼は嘘はついていない。

彼が救うのは立花柚月の息子だ。

西園寺理穂は安堵の息をついた。

「蓮、何も口うるさく言うつもりはないけれど、立花柚月は悪評だらけよ。彼女のために自分の将来を棒に振るような真似だけはしないでちょうだい」

西園寺蓮は淡々と言った。

「母さん、彼女の作品が好きだと言っていただろう?」

「作品は作品、人は人よ」

彼女とて、立花柚月が良い伴侶に巡り会うことは願っている。

だが、その相手が自分の息子であってほしくはない。

母親として、息子にはより良い相手を求めてしまうエゴがあった。

「母さん、果物をどうぞ」

西園寺蓮は話題を変えた。

西園寺理穂は息子を観察したが、少しも後ろめたい様子がないのを見て、自分の考えすぎだったのかもしれないと思い直した。

「将来のお嫁さんが名門出身かどうかなんて気にしないわ。才能がなくたっていい。でもね、品行方正で身元がしっかりしていること、それだけは譲れないの」

「分かっているよ」

西園寺蓮の返答は極めて淡白だった。

もちろん、適当に合わせているだけだ。

だが西園寺理穂は息子のクールな態度に慣れっこで、特に気に留めなかった。

立花柚月は確かにかつては美しかったが、今は悪評塗れなうえに顔に傷まである。立花柚月を見下しているわけではないが、プライドの高い息子がそんな女性を好きになるはずがないと高を括っていたのだ。

実家を出た時には、既に午後四時になっていた。

西園寺蓮は車に乗り込み、空港へ急がせた。

「教授の居場所は確認できたか?」

ハンドルを握る七社和也が答えた。

「はい。教授は今夜のフライトで発つ予定です。日付が変わる〇時の便ですが、我々が向かえば二十時には到着しますので、十分に間に合います」

もし教授の予定が変わっていなければ、これほど急ぐ必要はなかったのだが。

「ああ」

西園寺蓮は目を閉じた。今回の行程にこれ以上の変更がないことを祈るばかりだ。

には時間がない。

……

立花柚月は病院に泊まり込み、に付き添うつもりだった。

だが日が暮れた頃、家政婦の山口から電話が入った。

『奥様、旦那様が仰っています。帰りが遅くなるようでしたら、お迎えの車を出しますが』

「いいえ、タクシーで帰るから大丈夫よ」

『分かりました。もう暗いですから、お気をつけてお早めにお戻りください』

立花柚月は誰かに気遣われるということが久しくなかったため、どう断ればいいのか分からなかった。

彼女は病院を出たが、その背中を見つめる視線があることには気づかなかった。

黒田大河は背後から園田麻衣の腰を抱き寄せた。

「何を見ているんだ?」

彼女は窓の外をじっと見つめていた。

もしや、どこかの男でも見ているのか。

園田麻衣は溜息をついた。

黒田大河は眉を寄せた。

「どうした?」

園田麻衣は唇を噛み締め、何も言わずにただ涙をこぼした。

美人の涙は男の庇護欲をそそる。

ましてや今、黒田大河の心は彼女にあるのだ。彼はすぐに甘い声を出した。

「なぜ泣くんだ? 誰かにいじめられたか? それとも何か困ったことでも? 俺に言ってみろ、解決してやるから」

園田麻衣は涙を流すばかりで口を開かない。

黒田大河はいよいよ焦り、彼女を腕の中に抱き込んであやした。ようやく彼女を落ち着かせると、病室の入り口に部下が控えているのが見えた。彼は適当な口実を作って病室を出た。

廊下で彼は部下に尋ねた。

「言え」

部下は即座に報告した。

園田さんの最近の動向を調査したところ、記者会見の前に西園寺蓮と会っていたことが判明しました」

「あいつに会ってどうするつもりだったんだ?」

「分かりません。会員制のクラブで機密性が高く、内容は不明です。ただ、園田さんは泣きながら店を出てきたそうで……それに最近、西園寺蓮立花様と親密な様子です」

はっきりとは言わないが、それはある種の暗示だった。

黒田大河は冷笑した。

立花柚月め、なかなかの手腕だ。西園寺蓮をけしかけて俺たちを攻撃させるとはな」

部下は押し黙ったままだ。

黒田大河は壁に寄りかかった。

「タバコはあるか?」

部下はタバコを取り出した。

「社長、園田さんに止められていますが」

黒田大河はタバコを口元まで運んでいたが、その言葉を聞いて部下を睨みつけた。結局タバコを下ろし、指先で弄びながら尋ねた。

立花柚月のほうは? 何か動きはあるか?」

「いえ、ここ二日はずっと病院でお子さんに付き添っています」

「はん」

黒田大河は鼻で笑った。

「問題を起こしておいて、大人しくしていれば済むとでも思っているのか。そうはいかないぞ」

ふと離婚手続きの日のことを思い出した。あの写真のことを持ち出した途端、立花柚月はすぐに離婚に同意したのだ。

彼女の弱点はあまりにも明白だった。

彼はタバコを床に投げ捨て、靴の爪先で踏みにじった。

「やはり少し痛い目を見せてやらんとな。そうでもしないと学習しないようだ」

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