第4章
「ふざけんな! お前、九条和也が――」皆木恒弘が怒鳴り散らした。
「もういい」天城澪が皆木恒弘の言葉を遮り、九条和也を見た。初めて、あんなにも疲れ切った目で。「九条和也。これが、あなたの答え?」
小野詩織の横槍で、九条和也が固めかけた決意は、ドミノみたいに崩れた。倒れたら最後、もう二度と立て直せない。
澪と結婚したい気持ちはある。だが今じゃない。
澪が怒っているのもわかる。けれど彼女は、いちばん心が柔らかい。
甘い言葉をいくつか並べて、あとで好きなバッグや服でも買ってやれば――許してくれる。九条和也は、そう思っていた。
「澪、俺にも事情がある。頼むから、追い詰めないでくれ」
そう言いながら、用意していた“ちゃんとした説明”は、澪の失望に濡れた視線に削られていき、言葉は少しずつ本音に寄っていく。
「結婚したいなら、少しは考えろよ。お前は孤児だ。九条家に何の得がある? 母さんのことはどうする? 喧嘩したら、俺はどっちに立てばいい? それに今、俺は仕事が立ち上がったばかりだ。結婚したら時間も労力も取られる。考えたことあるのか? お前は自分勝手だ。自分のことしか――」
「十四年知ってて、七年付き合って……初めて知った。私といるのが、そんなにしんどかったんだ」
天城澪は自嘲気味に笑った。
九条和也の心が、もう外へ向いていることくらい、気づいていた。
どうして気づかないでいられるだろう。
服に残る香水の匂い。
シャツの背中の口紅の跡。
見て見ぬふりをしてきた。
気づかないふりができたのは、平気だったからじゃない。口にした瞬間、最後の可能性すら消えるのが怖かったからだ。
十代の勢いで燃えた恋じゃない。
十年以上積み重ねた、彼女の習慣と献身だ。
だから、目を閉じるのは難しくなかった。
澪は首元に手をやり、ずっと身につけてきたプラチナのネックレスを外し始めた。
それは彼女が十八のとき、九条和也が寝ずに掛け持ちして買ったものだった。
その後もっと高価な贈り物ももらった。けれど澪が肌身離さず着けてきたのは、これだけ。
その仕草を見て、九条和也の胸が大きく上下する。目が赤い。
「……どういう意味だ」
澪は見慣れた顔を見つめた。
怒っていても、九条和也は相変わらず眩しいほど整っている。
十八の夜、彼がこのネックレスを着けてくれたとき、二人は貧しくて、公園の無料の花火を借りて雰囲気を作った。
その後、貯めた金でT市へ旅行に連れて行ってくれた。
途中で財布を盗まれたとき、九条和也はスニーカーの中から数枚の福沢諭吉を取り出し、悔しそうに言った。
「誕生日プレゼント買うためのへそくりだ。靴の中なら誰も盗まねえ。だって安い運動靴なんか盗まないだろ」
列車に乗る前に買ったカップ麺一つ。
九条和也は惜しんで食べなかった。澪は「食べられないふり」をして、残り半分を彼に食べさせた。
あの日、九条和也の涙は全部、スープに落ちた。
歯を食いしばって誓った。
――一生、裏切らない。
「もう、いらない。持ってて」
体温の残るネックレスが、足元に落ちた。
澪は振り返らずに出ていった。
「九条和也、お前正気か! 追えよ!」皆木恒弘が見かねて、呆然と立つ九条和也の背中を叩く。「嫁が逃げたのに何突っ立ってんだ!」
誰も息ができない。
鈍い奴でもわかった。九条和也の“本命”は天城澪だ。
小野詩織の目に、悔しさが走る。
「そうだよ、和也。追いかけて、澪さんにちゃんと説明してあげて」小野詩織はもっともらしい顔で言った。「澪さんはただ結婚したい気持ちが強すぎただけ。あなたの立場を考えられなかったの。あなたが裏でどれだけ耐えてるか、澪さんは知らないんだよ」
優しい声で、火をくべる。
「澪さんって気が強いから、みんなの前でもあなたの顔を立てないし……女って結婚を迫り始めると冷静じゃなくなるよね。あなたは澪さんのこと、こんなに愛してるのに。どうして澪さんは理解してくれないんだろ」
皆木恒弘はこめかみが跳ねた。
「お前、黙れ。今日こんなことがなけりゃ、ここまで拗れねえだろ!」
小野詩織が割り込まなければ、澪は結婚を勝ち取っていたかもしれない。
「私、間違ってないよ。澪さんが少しでも和也のこと考えてたら、あんな言い方しないもん。でも和也、今回なだめて戻したら、次はもっとひどくなるかも」
九条和也は追いかけようとして、足が止まった。
「……ひどくなる?」
小野詩織が頷く。
「“作ってる”んだよ。結婚を迫るために。今回許したら、次はもっと大騒ぎして迫ってくる。大丈夫、今は怒ってるだけ。落ち着いてからのほうが、なだめやすいよ。私も女の子だからわかる。今追いかけたら、もっと喧嘩になる」
「……そうだな」
九条和也は冷静になろうとした。
今追えば、もっと激しくぶつかるかもしれない。
「小野詩織、悪かった。お前の誕生日、台無しにした」
「そんなことないよ。あなたが用意してくれたサプライズ、すごく嬉しかった。罪悪感があるなら――」小野詩織は小悪魔みたいに瞬きをする。「次で埋め合わせしてくれたら許す」
皆木恒弘は呆れた。
九条和也の泥みたいな頭は、小野詩織にかき回されて、見事に信じてしまった。
「九条和也、マジで追わないのか?」
「追わない! 冷静にさせるんだ。俺だってしんどいんだよ!」
九条和也は不安だった。
だが小野詩織の言葉は、妙に納得できた。
この数年、澪のために家に逆らってきた。実の親より近くないくらいだ。
孤児の澪なら、その痛みがわかるはずだろう――。
「皆木恒弘、お前どっちの味方だよ。なんでいつもあいつの肩持つんだ」
皆木恒弘は頭を抱え、親指を立てた。
「はいはい。もういい。いつか天城澪が本気で要らないって言ったら、泣くのはお前だぞ」
……
「九条社長、まだ待ちますか」
運転手がミラー越しに伺う。
後部座席で九条裕也は目を閉じていた。眉間に深い影。車内に沈む、重たい気配。
運転手は迷いながら言った。
「これだけ時間が経つと……天城さん、降りてこないかと」
九条裕也が目を開けた。
いつも感情を見せない顔に、初めて濃い陰が満ちる。
抑え込んでいるのがわかる。指がきつく握られ、血管が浮いた。
やがて、ゆっくり手を緩め、冷えた声で命じた。
「出す」
運転手が黙ってアクセルを踏みかけ――急に緩めた。
「九条社長! 天城さんが出てきました!」
天城澪はひどくみすぼらしく見えた。
日差しの下で肌が透けそうに白く、顔色も悪い。
九条裕也の眉がきゅっと寄る。
鋭い視線が窓の外を射抜き、近づいてくる影を捉えた瞬間、彼はドアを開けて降りた。
長い脚で数歩。
澪の前に立つ。
大きな影が覆いかぶさった。
興奮で血が回っていないのか、澪の視界が暗くなる。
誰が来たのか確かめる前に、鼻腔に熱が溢れ――そのまま意識が落ちた。
痛みは来なかった。
落ちた先は、広く、温かい腕の中だった。
九条裕也は軽すぎる体を抱き留め、顔色をさらに険しくする。
運転手が慌てて降り、状況を見て息を呑んだ。
「……どうされたんですか」
「車を出せ」
九条裕也は陰鬱な声で命じた。
彼は澪の頭を支え、上を向かせる。
鼻血が喉に流れ込まないように。
そして冷たく言い放つ。
「九条家に連絡しろ。九条和也を仏間に縛って連れて行け。まず三日三晩、跪かせろ」
