第5章

天城澪が出ていってから、個室の空気はどこか冷えたままだった。

形だけ、残りの流れは続けた。けれど誰ひとり、心から祝ってなんかいない。

九条和也は上の空で小野詩織にろうそくを吹かせ、ケーキを切らせると、陰気な顔でソファに沈み、天城澪へメッセージを打ち込んだ。

【もういい加減にしろ。結婚ってそんな簡単じゃない】

【約束する。遅くても来年。来年結婚しよう。それでいいだろ】

【天城澪、お前いつまで“作る”んだ? 今結婚するのがそんなに大事か? 俺たちを別れまで追い込みたいのか?】

【あの件、忘れたのか。俺以外にお前を受け入れる奴がいると思ってるのか?】

……

【悪かった。別れとか、あの件とか言うべきじゃなかった。送ったら取り消せない。返事してくれ】

【喧嘩したのは俺が悪い。謝る。でも無視はやめろ】

「……くそっ!」

九条和也は勢いよく立ち上がり、外へ出ようとした。もう耐えられない。天城澪に会わなければ、今日は何も手につかない。

だがドアを開けた瞬間、黒服のボディガードが雪崩れ込んできた。腕を捻り上げられ、そのまま床に押さえつけられる。

「痛っ……! てめぇら、何しやがる!」

「申し訳ありません。九条社長のご命令です」黒服は腕を背中で固め、そのまま引きずり出す。「疑問があるなら、九条社長に直接どうぞ」

助けようとした連中も、「九条社長」の名を聞いた途端に動きを止めた。

家の問題だ。

外野が口を出すのはまずい。

何より、九条裕也を敵に回せるわけがない。

個室は一気に混乱した。そのせいで誰も見ていない。

小野詩織が素早く床に落ちたネックレスを拾い、ポケットへ滑り込ませたことを。

……

個室の消毒臭は、一般病棟ほど強くない。

天城澪は夢を見た。九条和也が九条家に連れ戻されたばかりの頃の夢だ。

九条里奈は彼女を嫌い、別れろと迫った。

そのとき天城澪は、かつて偶然助けた男が九条和也の叔父――九条裕也だと知った。

九条裕也は言った。

命の恩は返しきれない。困ったことがあれば、無条件で願いを三つ叶える、と。

だから彼女は九条裕也に頼んだ。

あのときの自分は、安いワンピースを着て、靴底が剥がれ、落ち着かない手を重ねていた。

恥ずかしさに耐えながら頭を下げた。

「叔父さま……九条おばさまに言ってください。私と和也は本気で愛し合ってます。お金目当てじゃありません」

当時の九条裕也は黒い対襟の服で、茶室に座っていた。湯気の向こうで、淡々と言った。

「俺の出来損ないの甥は、どれほど情けない。お前が出て、恋を守らないといけないほどに」

「君は若い。約束の重さを知らない。望むなら、この三つの願いで君を一気に上へ引き上げられる。九条家の誰一人、君に顔色を見せなくなる」

「男に使うな。まして――」九条裕也は薄く笑った。「あんな出来損ないに使えば、必ず後悔する」

そこで夢が途切れた。

天城澪が目を開ける。

隣に座る男を見た瞬間、夢の続きかと思った。

九条裕也。

今思えば、彼は間違っていなかった。

数年で、九条和也との関係はすっかり別物になってしまったのだから。

そのあと、彼女が帰ろうとしたところを九条裕也の秘書に呼び止められた。

「天城さん。九条社長からの伝言です。あのとき助けていただいた恩は忘れていない。今後、困ったことがあればまた連絡していい、と」

「それから……九条社長は『後悔しないように』とも」

秘書は靴箱を差し出した。

天城澪はそれを抱え、九条裕也がいつ自分の靴底の剥がれに気づいたのか、わからなかった。

その場で指摘せず、少女の最後の自尊心を守るように、あとから贈ってくる。

子羊革の底。イタリアの手仕事のブランドで、履けば雲を踏むみたいに柔らかい。

それが、彼女にとって初めてで――そして唯一の、ブランド品だった。

「目覚めたか」

九条裕也は手元の書類を閉じ、凪いだ声で言う。

「重度の貧血。洞性徐脈。胃潰瘍。精神的ストレス過多。それから――」

淡々と列挙されるほど、天城澪は肩身が狭くなる。

九条裕也の声は、鋭い皮肉の線になる。

「教えてくれ。21世紀に、どうやったら栄養失調まで行ける」

そして急に厳しくなる。

「今のお前の体は、臨界点を越えたら小さな不調が大きな病気になる。命を落とす可能性もある」

「凝固障害もある」

「つまり手術になれば、出血が止まらないリスクが常人より五割高い」

「二十二。死にたいのか」

最後の問いに、天城澪は恥ずかしくて顔を上げられなかった。

檀香の残る冷たい指が顎を掴み、持ち上げる。

九条裕也の目は感情が薄いのに、逃げられない。

「男のために、ここまで壊して。価値があるか」

天城澪は拳を握りしめた。

「……九条和也のためじゃありません」

孤児として育つ間に浴びた悪意は数えきれない。人の目なんて、いちいち気にしていたら生きてこられなかった。

それでも、この人にだけは誤解されたくなかった。

「祖母が病気で入院してて、ずっと看てたんです。それでこうなっただけです。九条和也のせいじゃないです」

九条裕也の表情は変わらない。

だが天城澪には、ほんの少しだけ機嫌が戻った気がした。

――近い。

距離に気づいて、天城澪は慌てて視線を逸らし、体を後ろへ引いた。

九条和也とは別れると決めた。けれど九条裕也は、名目上はまだ“年上の叔父”だ。

「いつ退院できますか」

九条裕也は彼女の躲避など気づかないふうに、水のコップを取る。

「治ってからだ」

人さし指が、無意識に何かを捻るように動いて――やがて止まる。

天城澪は彼を見上げた。

九条和也はこの叔父を、冷酷で、情がなく、家族や友人より株価の上下のほうが大事だと愚痴っていた。

だから自分に手を差し伸べるのも、甥の彼女だから、面倒を大きくしたくないだけなのだろうか。

「九条さん」

天城澪は布団を引き上げ、顔を半分隠すように言った。

「入院費と検査費、領収書ください。返します。……今は休みたいので、出ていってもらえますか」

「金は急がない」九条裕也は短く言う。「まず体を治せ」

「用がある。これを使え」

彼は新しいスマホを机に置いた。

「元のは移動中に落とした。SIMは作り直しておいた」

天城澪がホテルに入ったあと何があったか、九条裕也は詳しく聞かなくても察しがつく。

調べればすぐわかる。

天城澪が倒れてから丸一日。

その間、九条和也も九条家の仏間で丸一日跪かされている。

そろそろ“甥”の顔を見に行く頃だ。

ドアの外で立木宣人が待っていた。

友人であり主治医でもある彼は、九条裕也が女と関わっていること自体が珍しくて仕方ない。

「中の子、お前とどういう関係だ。正直に言え」

九条裕也は一瞥する。

「今のところ、九条和也の彼女だ」

「うわ、えげつねえな」立木宣人は含み笑いを漏らす。「さすが。甥の女にまで手を出すか」

九条裕也は冷笑した。

「守れないなら、奪われても文句は言えない」

立木宣人は肩をすくめ、思い出したように言う。

「そうだ、小野家の小野夫人。昨夜また自殺騒ぎだってさ。思い詰めたらしい」

「凝固障害もあるのに、あれだけ暴れたらそりゃ危ない。今朝俺がオペから降りたとき、ギリだった」

「娘の小野詩織は慌ててたよ。まあ、母親だしな」

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