第6章
九条裕也が冷えきった視線を投げただけで、立木宣人は反射的に口をつぐんだ。
――そうだ。九条裕也は、ゴシップに興味なんてない。
「彼女の容体は最悪だ。何かあったら、すぐ俺に連絡しろ」
それだけ言い捨てて、九条裕也は去っていった。
背中から滲む寒気に、立木宣人は思わず肩を震わせる。小声でぼそりと呟いた。
「九条和也、今回は……皮一枚じゃ済まねえな」
……
九条和也は御霊舎で丸一日跪かされ、顔色は紙みたいに白かった。膝は痛みを通り越して痺れ、感覚がない。
九条裕也への怨みは、とうに頂点を越えている。
叔父がひと言命じれば、母ですら裏で手を回せない。こうして“罰”を受け続けるしかなかった。
「裕也、怒らないで……この子は私のそばで育ってこなかったから、まだ分別が――」
意識が飛びそうになった頃、外がざわついた。
母の声だ。
……まだ、叔父に取りすがっている?
来たのか。
そう思った瞬間、喉の奥に冷たい恐怖がせり上がり、九条和也はごくりと唾を飲み込んだ。
落ち着いた足音が近づく。
氷みたいな視線が、容赦なく和也に落ちた。重たいまぶたを持ち上げると、視界の端で、九条裕也が立っている。
「叔父……」
だが九条裕也は和也を一瞥しただけで、背後から入ってきた和也の母――高橋雅子へ視線を移した。
「二十過ぎて『まだ分別がない』か。初めて聞いた」
言葉は鋭利で、容赦がない。高橋雅子の胸を正確に抉った。
怖い。腹が立つ。けれど、九条家を動かしているのは九条裕也だ。逆らえるはずがない。
高橋雅子は深く目を閉じ、息を整えた。
「和也があなたを不快にしたのは当然よくないわ。……どう罰するつもり?」
「母さん!」
一日一晩跪かされ、九条和也は崩れかけた。これ以上があるのか。
高橋雅子は和也を睨みつけ、入口へ命じる。
「家法を」
九条家の家法は厳しい。だが近年は形だけで、ここまで持ち出されることなどなかった。
和也が戻ってから、高橋雅子は罪悪感もあって、天城澪の件以外は甘やかしてきた。
けれど九条裕也がここに立つ以上、見せしめは必要だ。先に“叔父の怒り”を鎮めるしかない。
九条和也は屈辱で歯を噛みしめた。
「叔父! 俺が何をしたっていうんだ! こんな――」
「和也!」
高橋雅子が低く制する。
この場で九条裕也を刺激するのは最悪だ。
恐る恐る九条裕也を見ると、冷えた双眸に、さっきまでなかった殺気が混じっていた。
九条裕也が高橋雅子へ向けて言う。声は底冷えするほど冷たい。
「お前も、わからないのか」
かつて「天城澪をこれ以上追い詰めない」と約束したはずだ。なのに、結果はどうだ。
九条家が、人ひとり満足に食わせも着せもしない?
そんな恥があるか。
高橋雅子の肩が震える。
「……澪のことで?」
昨夜、和也が罰を受けたと聞いて、彼女は人を走らせて事情を調べさせた。
腹が煮えくり返った。
あのクズが、どうして九条裕也にそこまで重く見られる。
命の恩なんて、本当に便利な札だ。
「俺との約束を破った上に、こいつが九条家の名を汚す真似をするのを黙認した。それが罪じゃないと?」
高橋雅子は反論できない。
「……二度としないと約束するわ」
心の中では毒づく。
天城澪が九条裕也に泣きついたに違いない、と。
九条和也は会話から察した。結局、また澪だ。
「叔父、これは俺とあいつの――」
言いかけて、喉が凍った。
九条裕也の目が、あまりにも恐ろしい。
九条裕也は断言する。
「俺がいる限り、九条家の誰一人、彼女に手出しはさせない」
高橋雅子も九条和也も、息を呑んだ。
これまでも九条裕也が澪を庇うことはあった。だが、ここまで強硬ではなかった。
九条裕也の瞳がさらに冷える。
「躾けられないなら、九条家に置く必要はない。恥を晒すだけだ」
九条和也が顔を上げた。血の気が引く。
――それはつまり、継承の席から外すということか。
いいだろ。
澪は「信じる」と言ったくせに、最後はこんなやり方で俺を追い詰めるのか。
なんて手の込んだ女だ。
九条裕也が去ったあと、高橋雅子は恨みを九条和也にぶつけ、家法も容赦しなかった。
「一番言うことを聞く女だったんじゃないの? それを叔父のところまで告げ口させるなんて!」
「このままじゃ、私たち、九条家から一銭も引き出せなくなる!」
皮膚の痛みと、母の罵声。
九条和也の意識は、遠のいていった。
この件はすぐ広まり、同情めいたメッセージが次々届く。
九条和也は苛立ってスマホを投げた。
――全部、笑いものにしてるだけだ。
目を閉じれば、ホテルを出ていった天城澪の冷たい横顔が浮かぶ。
胸が苦しい。
九条和也は体を引きずってベッドを降り、スマホを拾い上げる。
澪を問い詰めるつもりだった。
結婚したいなら、叔父の前で俺を立てればいい。
俺が九条グループを掌握すれば、母だって逆らえない。
どうして待てない――。
「和也、何してるの? 無理しないで」
小野詩織が、保温バッグを提げて部屋の入口に立っていた。慌てて駆け寄り、和也を支える。
九条和也は目を瞬いた。
「……なんでここに」
小野詩織は床に落ちたスマホを拾い、手渡しながら視線を伏せる。
「罰を受けたって聞いたの。ごめんね……昨日のことで澪さんが怒って、九条裕也に言いつけたの?」
その名を聞いた瞬間、九条和也の表情が沈む。
小野詩織は続けた。声は弱々しいのに、言葉は的確に刺さる。
「私が止めなければ、澪さんは九条裕也に頼らなかったかもしれない。ごめん……澪さんがこんなことするなんて思わなかった。……だって、和也のこと、本当に好きだと思ってたから」
最後の一言が、九条和也の傷口を抉った。
顔色が鉄青になる。
「和也、怒らないで。人間ってそういうものだよ。澪さんは昔から苦労してきたし、今回はあなたの気持ちを考える余裕がなかったんだと思う」
詩織はため息をつき、優しく宥める。
だが九条和也の怒りは増すばかりだった。
「……じゃあ自分の得のためなら、俺がどうなってもいいってことか?」
スマホを開き、昨日のトーク履歴を見る。
あれだけ送って、返事は一つもない。
怒りのまま、馴染みの番号へ発信する。
二回鳴って、相手が出た。
「……もしもし」
清冽な声に、九条和也は一瞬言葉を失った。
これまで澪は、彼に優しかった。強い言葉など一度もなかった。
それが今は、九条裕也を背にした途端に、やけに傲慢に聞こえる。
「天城澪! どういうつもりだ! 結婚のために、そこまでやるのか!」
九条和也は怒鳴った。体の痛みが、屈辱を思い出させる。
沈黙が返ってきて、さらに苛立つ。
「喋れ!」
「……言うことはない」
淡々とした声。
「私たち、もう別れた」
ツーツー……。
通話が切れた。
九条和也は口を開いたまま固まり、顔色が青紫に変わっていった。
