第8章

「どうして?」

天城澪は眉間にかすかな皺を寄せ、腑に落ちないという色を声に滲ませた。

見下してきたのも九条和也。嫌ってきたのも九条和也。

それなのに、ここまで来て怒っているのは――なぜか彼のほうだった。

九条和也は言葉を失い、喉の奥で詰まらせたまま、ようやく絞り出す。

「……叔父さんの耳に入ったら、俺はどうなるんだよ」

そうだ。澪はそれを分かったうえで、今こうして平然としている。

九条和也の弱点を、正確に握っている。

天城澪の表情がすっと冷える。瞳の奥を、傷ついた色が一瞬だけ走った。

「つまり――私たちの関係は最初から最後まで、あなたの叔父さんが繋いでただけってこと?」

冷たさが、さらに深まる。

もう十分だ。

彼女は九条和也に、いくつ機会を与えてきた?

「九条社長。労働法上、あなたが同意しなくても関係ありません。期日が来れば辞めます」

無駄なやり取りはしない。

天城澪はきっぱり踵を返した。

ドアを開けた先で、書類を抱えた小野詩織が躊躇うように立っていた。

「澪さん……」

天城澪は視線すら向けず、そのまま通り過ぎる。

気にしないなんて無理だ。

かつて自分だけを見ていた九条和也が、今は別の誰かを見ている。

小野詩織はオフィスへ入り、書類を九条和也の机に置いた。

「和也、澪さんと喧嘩したの?」

九条和也はすでに退職届をぐしゃぐしゃに丸めている。苛立ちを噛み殺せず吐き捨てた。

「喧嘩じゃねえ。あいつ、辞めるって言い出した」

ここは九条グループ傘下の子会社だ。

澪と一緒に働くために、わざわざ自分で選んだ。

母親の反対を押し切って、澪をデザイナーとして入社させた。

そうしなければ、もっといい道だってあったのに。

小野詩織が目を丸くする。

「えっ……澪さん、どうして? まだ私のこと怒ってるの?」

九条和也はネクタイを乱暴に引いた。

「お前は関係ない。放っておけ。どうせ頭に血が上ってるだけだ」

――だいたい、澪が怒る資格なんてあるのか。

小野詩織の瞳の奥に、濃い影が一瞬よぎる。

それでも声は柔らかく、九条和也を宥めるように言葉を重ね、やがて部屋を出ていった。

それから一時間もしないうちに、天城澪の退職話は社内に広がった。

「澪さん、辞めるんだって? なんで?」

「もっといい転職先が見つかったんじゃない? 辞表、即出しらしいよ」

「九条社長、澪さんには優しかったじゃん。最初の案件も九条社長が引っ張ってくれたから、あんなに早く名前が売れたのに」

「結局、上に行きたいんでしょ。止められないよね」

天城澪が給湯室で水を汲んでいると、その声が耳に刺さった。

眉間がきゅっと寄る。

――いつから自分が、玉の輿狙いになった?

「澪さん、本当に辞めるの?」

背後から小野詩織の声が落ちた瞬間、噂話はぴたりと止まる。

陰口を叩いていた同僚たちは、天城澪がそこにいたと気づいて気まずそうに目を逸らした。

だが次の瞬間、どこか蔑むような視線を向けてくる。

どうせ図星だろ、とでも言いたげに。

天城澪の瞳が細くなる。

――出来すぎている。

「ええ」

どうせ辞めるのだ。指をさされる理由なんてない。

小野詩織は心配そうな顔を作る。

「どうして? 会社、澪さんにずっと良くしてくれてたよ。前にデザイン稿を間違えたときだって、和也が代わりに頭下げてくれたのに。恩知らずって思われても仕方ないよ」

九条和也のために言っている、という体裁。

従順そうな表情が、言葉の説得力を増していた。

天城澪は淡々と返す。

「和也?」

小野詩織が一瞬固まる。そこを突かれると思っていなかったのだろう。

天城澪は口元に冷たい笑みを浮かべた。

「会社では、私だって九条社長って呼んでるのに。あなたは和也、なんですね。ずいぶん距離が縮まったみたいで」

小野詩織は慌てて首を振る。

「み、澪さん、何言って……誤解だよ?」

いつもの、怯えた小動物みたいな顔。瞳に涙を溜める。

天城澪の笑みは、さらに刃を帯びた。

「怖がらなくていいですよ。感心しただけ。私が捨てた男を、そこまで必死に奪いに来るんだって」

「……えっ」

同僚たちがざわつく。

九条社長と天城澪が恋人?

そんなはず――。

小野詩織の胸の奥で、妬みが燃え上がる。

それでも表には出せない。歯を食いしばり、震える声を作った。

「本当に誤解だよ。私と和也の間には、何もない」

「何もない?」

天城澪の視線が、小野詩織の首元へ落ちた。

そこにある。

自分が九条和也に返したはずのネックレスが、小野詩織の胸元で光っている。

天城澪の笑みが消えた。

「何もないなら、どうして私が九条社長に返したネックレスを着けてるんですか。小野さんの家、潰れたんですか? 中古が好き?」

淡々とした声。けれど、刺すように鋭い。

小野詩織の顔色が変わる。

拾ったあのネックレスで、澪に『和也が私に渡した』と思わせるつもりだった。

なのに澪は動じないどころか、逆に切り返してきた。

――天城澪って、こんな言い方する人だった?

小野詩織の目に霧が浮かぶ。

「わ、私は……」

「何してる」

九条和也がオフィスから出てきた。

給湯室で小野詩織が泣きそうになっているのを見て、眉をひそめる。

小野詩織は堪えきれないように泣き出した。

「ごめんなさい、澪さん。怒らないで。こんな誤解になるなんて思わなかった……私、辞める。だから二人とも、ずっと幸せでいて」

九条和也の胸が痛んだ。

「天城澪! 俺に当たるのはいい。でも詩織をいじめるな!」

天城澪は、心が死ねば痛みも消えると思っていた。

けれど九条和也が迷いなく小野詩織を信じた瞬間、胸の奥がまた抉られた。

「……私が、そういう人間に見えるの?」

九条和也は、その失望を含んだ目に一瞬だけ揺れた。

小野詩織が慌てて割って入る。

「違うの! 和也、怒らないで。澪さんはいじめてない。私が悪いの」

「なんでお前はいつもそうなんだ」九条和也は苛立ち、天城澪へ吐き捨てる。「お前、いつになったら大人しくなる? みんなを追い詰めて楽しいのか!」

天城澪の体が、ぴくりと固まった。

そのとき。

「……誰が、彼女を追い詰めた」

氷の刃みたいな声が、背後から落ちた。

三人とも息が止まる。

――九条裕也の声。

九条和也がぎこちなく振り返ると、黒いトレンチコートを纏った九条裕也が、ゆっくりと近づいてきた。

冷え切った眼差しには、溶けない寒さが宿っている。

九条和也の喉が震える。

「……叔父」

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