第9章 高級車は誰が修理する?
翌朝早く。
制作陣は一同を海沿いの別荘、その裏庭へ連れて行った。
庭の中央に、マルチカバーをかぶせられた車が一台。
マーカスが歩み寄り、乱暴にそれを引き剥がす。
ぶわっと埃が舞い上がり――銀色の1964年式アストンマーティンDB5が姿を現した。
美しいライン。けれどボンネットは開け放たれ、エンジンルームには油の染みと錆がびっしりこびりついている。
「今日の課題はシンプルだ」
マーカスは車のドアをぱん、と叩いた。
「こいつは故障してる。工具と交換パーツ一式は番組側が用意した。10人のうち誰でもいい。この車をもう一度始動させた奴には、今日限定で好感度1万ポイントを加算する」
1万ポイント。
下位の人間なら、いきなり首位まで駆け上がれる数字だ。
ティファニーの目が一瞬きらりと光り、すぐに曇った。
「ふざけないでよ!」
甲高い声が飛ぶ。
「クラシックカーでしょ!? 修理なんて無理に決まってる! ここにいる誰が直せるのよ。わざと恥かかせたいだけじゃないの!」
リアムが前へ出て、エンジンルームを覗き込む。
「スパークプラグがかなり劣化してる。キャブレターにも問題があるな」
眉を寄せた。
「撮影でちょっと触ったことはあるけど、こういう古い車は専門のメカニックじゃないと無理だ」
コールも首を振る。
「タイヤ交換くらいならまだしも、エンジンを触るなんて無理だ」
誰もが腰を引いていた。
1万ポイントは魅力的だ。だがカメラの前で無様を晒すリスクを、わざわざ背負いたくない。
アイヴィーはジュリアンの隣で下唇を噛んだ。
いまの彼女には、その1万ポイントが喉から手が出るほど必要だ。
「お兄様、やってみてくれない?」
袖をちょん、と引く。甘えた、柔らかい声。
「前にスポーツカーをカスタムしたことあったでしょう?」
ジュリアンは露骨に困った顔になる。
「それとは別だ、アイヴィー。あれは金を出して人にやらせただけだ。俺が修理なんてできるわけないだろ」
アイヴィーは目を伏せ、失望を飲み込むように息をついた。
そしてカメラへ向き直り、うまく微笑む。
「この車、古すぎるわ。制作側、ちょっと無茶な課題を出してると思う。みんな芸能関係の人なのに、こんなのわかるわけないもの」
番組側へ責任を押しつけ、自分が挑まない言い訳も作る。いつもの手口。
エヴァは相手にしなかった。
まっすぐ工具箱へ向かい、サイズの合うスパナを選び、ソケットレンチも手に取る。
「何する気?」
ティファニーが怪物でも見るような顔をした。
「エヴァ、まさか直すとか言わないわよね?」
「どいて」
エヴァは工具を手に、車の前へ出る。
ティファニーが大げさに笑った。
「うそでしょ。自分を何だと思ってるの? 整備工場の整備士? リアムもジュリアンも手を出さないのに、あなたみたいな――」
「黙れ」
背後から、低い声。
セバスチャンが苛立った目でティファニーを見た。
「おまえは雑音以外に何か出せるのか」
ティファニーは顔を真っ赤にし、口をつぐむしかない。
アイヴィーが近づいてくる。心配しているふりの、優しい顔。
「エヴァ、無理しないで。この車、クラシックカーよ。壊したらすごく高いんだから。組み戻せなかったら、制作側に責任を問われるかもしれないわ」
「そうだぞ」
コールまで口を挟む。
「変なことするな。車の修理なんて女のやることじゃない」
エヴァは振り返りもしない。
手袋をはめ、エンジンルームへ身を乗り出す。
スパークプラグを外す。キャブレターを清掃する。ディストリビューターを点検する。
所作は、呼吸みたいに自然だった。
こんなもの、ヴァンスグループの地下駐車場で目を閉じていても分解組立できる。F1マシンのセッティングすら自分でやってきたのだ。60年代の車が何だというの。
10分後。
錆びた部品を廃品箱へ放り込み、新しいものへ交換する。
布で手の油を拭い、顔も上げずに言った。
「運転席へ」
リアムを指差す。
リアムは呆けたような顔で従い、シートへ滑り込む。
「点火して」
キーが回る。
ごうっ――
低く厚みのあるエンジン音が、裏庭を一気に満たした。
長い眠りから目覚めた名車が、息を吹き返す。
誰も声を出せない。
ティファニーは口をあんぐり開け、顎が外れそうだ。
コールは目を見開いたまま、幽霊でも見たように固まる。
アイヴィーの顔から血の気がさっと引いた。
「……はぁ!? クソが……」
マーカスが思わず汚い言葉を漏らす。
「エヴァ、おまえ前に何してた?」
エヴァは手袋を外し、工具箱へ放り返した。
「車の修理」
その瞬間、コメント欄は爆発した。
【何この女、格好よすぎるんだけど!?】
【分解の手つき、完全にプロ!】
【アイヴィーさっきまで嫌味言ってたのに顔面終わってて草】
【1万ポイント確定! エヴァ強すぎ!】
エヴァは水場へ向かい、手を洗う。
柱にもたれていたセバスチャンが、じっと彼女を見ていた。
「まだ何を隠してる?」
そう言って、清潔なタオルを差し出す。
エヴァは受け取り、手を拭いた。
「たくさん。どれが見たい?」
セバスチャンが小さく笑う。
「ウィットロック家のあの人が、見つけ出した娘が万能型のメカニックだと知ったら、顎が外れそうだな」
ウィットロック家。
その名を聞いた瞬間、エヴァの手が止まる。
「知らないわ」
「どうしてだ」
「8歳のとき、あの人たちに失くされたから」
声は小さい。だが、マイクには十分届く。
周囲の空気がすっと静まった。
全員がエヴァを見る。
アイヴィーの身体がびくりと強張った。
「失くされた?」
セバスチャンがわずかに眉を上げる。
「そう」
エヴァはタオルを籠へ投げ入れる。
「8歳のとき、遊園地で。誰かがドーナツをもう1個食べたいって言い出して、私ひとりをベンチに置いていったの」
振り向いて、コールを見る。
コールの顔から血の気が消えた。
「それで?」
セバスチャンが促す。
「それから?」
エヴァはふっと笑った。
「18年間、外で生きた。車の修理も、料理も、喧嘩も、少しは覚えたわ。でなきゃ生き残れなかったもの」
「じゃあアイヴィーは?」
ティファニーが食いつく。完全にゴシップの匂いを嗅ぎつけた目だ。
「妹なんじゃないの?」
「妹?」
エヴァはアイヴィーを見た。
アイヴィーの唇が震える。必死に首を横へ振り、目で訴えてくる。言わないで、と。
18年間、ウィットロック家の姫として生きてきた。誰もが彼女を名門の令嬢だと思っている。
「ただの養女よ」
エヴァはあっさりと言った。
「私がいなくなったあと、ウィットロック家が寂しさを埋めるために児童養護施設から引き取った、身代わり」
どん、と爆弾が落ちたみたいな衝撃。
コメントは狂ったように流れ、サーバーが一瞬重くなった。
