第3章
病院特有の、鼻腔を刺す消毒液の匂い。私は手首に巻かれた真新しいガーゼに目を落とす。滲んだ血は、すでに暗赤色に固まっていた。医師は「傷が深い。あと数ミリずれていれば神経が傷ついていた」と淡々と告げた。
惜しいことをした。いっそ、傷ついてしまえばよかったのに。
「草薙夜子さん、譲渡書類のご用意ができました」
スーツを隙なく着こなした仲介業者の男が、プロフェッショナルな口調で話しかけてくる。しかしその声には、どこか場違いな好奇の色が滲んでいた。
「夏目様は、すでにお近くまでいらしているそうです」
「そんなに早く?」
私は壁の時計を見上げた。約束の時間まで、まだ四十分もある。
仲介業者は一瞬ためらい、声を潜めた。
「夏目様は、貴女が……その、ご自身を傷つけられたと聞き、大変なスピードでこちらへ向かわれたとか。途中、警察に止められ、罰金まで科されたそうですよ」
私は呆然とした。
赤の他人が、どうしてそこまで?
考え込んでいると、病院の自動ドアの向こうに、すらりとした人影が現れた。黒縁眼鏡の奥で、炯々と光る瞳。ダークカラーのラフな服装が、彼の痩身ながらも引き締まった体を際立たせている。彼は周囲を見渡し、その眼差しは獲物を探す鷹のように鋭い。
夏目隆だ。
「23番でお待ちの、草薙夜子さーん」
看護師の呼び出しが、私の視線を遮った。立ち上がって振り返った瞬間、硬い体にぶつかる。
「夜子?」
顔を上げると、そこにいたのは草薙健太だった。金縁の眼鏡をかけ、白衣の胸ポケットには【横浜中央病院 内科】と刺繍された名札が見える。
「健太、お兄ちゃん……。どうしてここに?」
私は無意識に一歩後ずさっていた。
「学術検討会だ」
彼の視線が、包帯を巻かれた私の手首に落ち、あからさまに眉をひそめた。
「また何かやったのか。お前の最近の奇行は、俺たち家族全員の迷惑になっているんだぞ」
迷惑。
なんて的確な言葉だろう。彼らにとって、私は昔からずっと、迷惑な存在でしかなかった。
長兄の大介はエリート会社員、次兄の健太は医師、そして弟の勇太はレーシングドライバー。
優秀で、多忙な彼らにとって、私は常に腫れ物だった。
「草薙さん」
不意に背後から声がかかり、夏目隆がそっと私の肩を支えた。その手は驚くほど温かい。
「診察室へ。傷の手当てが先です」
私が返事をする間もなく、彼は私を促し、急ぎ足でありながらも落ち着いた歩調で診察室へと向かった。
「先生、彼女の傷を」
夏目隆の口調には、有無を言わせぬ力があった。
健太が後から入ってきて、取り繕うように丁寧な、しかし他人行儀な声で言った。
「私は彼女の兄で、医師でもあります。妹がご迷惑をおかけしました」
初老の医師は頷き、私の電子カルテに視線を落とすと、突然表情をこわばらせた。
「草薙さん、あなたの胃癌ですが……」
その言葉を遮るように、健太がカルテをひったくった。それにさっと目を通すと、彼はプロの医師然とした冷静な笑みを口元に浮かべる。
「まずは自傷行為、次に胃癌ですか。なるほど、仕事のストレスによる心身症の一種かもしれませんね」
私は乾いた笑いで応じた。
「そうですね。それならいっそ、死んでしまいましょうか」
その瞬間、健太の完璧な仮面に、初めて微かな亀裂が走った。彼は眼鏡を外し、疲れたように目元を揉む。
「夜子、俺は本当に疲れているんだ。お前が問題を起こすのは、もう見たくない」
いつもの私なら、ここで俯いて謝っただろう。「ごめんなさい、迷惑をかけて」と、自分の存在を消そうとしたはずだ。
けれど今日の私は、ただ静かに彼を見つめ返していた。
健太は私の反応に苛立ったようだった。
「本当にそう思うなら、もう二度と、家に帰ってくるな」
「はい、わかりました」
私は、平坦な声で答えた。
健太は息を呑み、呆然としていた。私がそう応じるとは、夢にも思わなかったのだろう。
空気が凍りついたその瞬間、夏目隆がすっと私の前に立った。私に背を向け、健太と対峙する。
「出て行ってください」
彼の声は低く、そして揺るぎなかった。それは目に見えない壁のように、私と健太をはっきりと隔てた。
健太は驚愕の目でこの見知らぬ男を見、次に私に視線を移したが、結局何も言わずに踵を返し、診察室を後にした。
夏目隆が振り返って私を見る。その眼差しには、私が家族の誰からも向けられたことのないものが宿っていた。
――気遣い。
純粋な、それ以外の何物でもない、気遣い。煩わしさも、憐れみも、義務感もない。
「傷は、まだ痛みますか?」
彼は尋ねた。
私は、このあまりに単純な問いに、どう答えればいいのか、わからなかった。
だって誰も、本当に誰も、今までそんなふうに私に尋ねてくれたことなど、なかったのだから。










