第2章

彩羽の視点

「息をするな」私は自分に言い聞かせる。

「何があっても、絶対に吸い込むんじゃない」

 残念ながら、生きるためには酸素が必要だ。吸い込んだ瞬間、胃袋が暴動を起こした。

「これ、新作の『ミッドナイト・ピオニー』ですよ、彩羽さん」白木が小鳥のようにさえずりながら、ムエットを私の鼻先で振る。

「トップはチュベローズ、ラストはホワイトムスク。『ロマンス』って叫んでるでしょ?」

 そいつは『吐き気』と叫んでいた。

 私はえずいた。それも派手に。

 白木を突き飛ばし、給湯室のシンクへ駆ける。危なかった。冷たい陶器に両手をつき、喉が焼けるような嘔吐感に襲われる。視界に黒い斑点が散らついた。

「うわお」白木がドアの枠に寄りかかり、目を丸くする。自分でも手首を嗅いでいる。

「まあ、私の調香センスがルミエール賞レベルじゃないのは知ってますけど、まさか有毒ガス扱いされるとはね」

 冷水を顔に浴びせ、荒い息を吐く。

「あんたのせいじゃない。……たぶん、腐った寿司でも食べたのよ」

 白木はニヤリとした。心配そうな顔から、あの危険な、猫のような好奇心へと変わる――私が一番恐れている表情だ。彼女はオフィスのゴシップレーダーであり、破局カップルの情報は本人たちより先に掴んでいる。

「腐った寿司、ねえ」彼女はねっとりと繰り返し、視線を私の下腹部へ、そして蒼白な顔へと戻す。

「それとも……いつまで経っても抜けない、最悪の二日酔いとか?」

 私は即座に身構えた。

「二日酔いじゃない」

「あのガラからもう五週間ですよ、彩羽さん」彼女は声を潜め、悪戯っぽく口角を上げる。

「ここだけの話、みんな噂してますよ。あなたが、あの西宮様と同時に消えたって」

「黙って」私は鋭く言い放ち、ペーパータオルをひったくる。手が震えていた。

「弥介なんてどうでもいい。あいつは甘やかされた、自意識過剰な投資家よ。私たちのパーティーに勝手に乗り込んできただけ」

「ふーん――幼馴染の投資家、ね。あなたのことを、首を絞めたいのか食い殺したいのか分からないような目で見つめてた男」彼女は一歩近づき、わざとらしいひそひそ声で、でもはっきりと告げる。

「まさか……『できちゃった』とか?」

 その言葉は、平手打ちのように私の頬を打った。

「ありえない」裏返りそうな高い声が出た。

「科学的にも、生理学的にも、論理的にも不可能よ」

「ご自由に」白木は肩をすくめる。

「でも、遅れてますよね。私、オフィスの生理周期記録するの趣味なんです。彩羽さんはいつも時計みたいに正確なのに。今は――遅れてる」

 クビにしてやりたい。怒鳴りつけてやりたい。でも私はただ彼女を押しのけ、自分のラボへ戻るしかなかった。

「仕事に戻って、白木。セクハラで訴えるわよ」

「愛してますよ、ボス」彼女は悪びれもせず笑った。

 椅子に座り込む。肋骨の下で心臓が暴れている。まるで罠にかかった鳥のように。

 遅れている。

 カレンダーアプリを開く。親指が日付の上で止まる。

 四日? 違う。十日だ。

 十日も遅れている。

「ストレスよ」空のビーカーに向かって呟く。

「ただのストレス過多」

 だが、吐き気は波のように押し寄せ、そのたびに強さを増していく。チュベローズの香りのせいじゃない。私が誓って忘れようとした、あの一夜と致命的な関係があるのだ。

 気を紛らわせなきゃ。仕事をしないと。

「聞いた?」

 顔を上げた。イタリア製のエスプレッソマシンの横で、ジュニアパフューマーたちが青ざめている。

「買収が決まったらしいよ」

「どこ? LVMH?」

「いや、もっと最悪。プライベート・エクイティだって。西宮グループらしい」

 指の間からピペットが滑り落ちた。

 西宮。

 私は立ち上がった。机の上が散らかるのも構わずに。

「独立系ブランドを買い漁ってるんだ」その中の一人が声を落とす。

「資産を全部切り離して、自社のラインに組み込む気だよ。もし西宮がルミエールを買収したら……」

 もし西宮がルミエールを買収したら、弥介はただの天敵や、あの一夜の過ちじゃ済まなくなる。

 私の上司になる。それどころか――私の『所有者』になるのだ。

 鋭く冷たい恐怖が喉を這い上がってくる。

 私はバッグを掴んだ。

「彩羽さん?」エレベーターへ急ぐ私を、白木が呼び止める。

「四時からチームミーティングが!」

「偏頭痛よ!」私は叫び、下へ行くボタンを連打した。

「あとよろしく!」

 ドラッグストアの照明は明るすぎた。私を尋問するような白熱灯。

 レジの店員とは目を合わせず、三つの箱をカウンターに放り出す。

 クリアブルー。ファーストレスポンス。念のため、高いのが嘘をついた時用のスーパーのPB品。

「今日はツイてない感じ?」ガムを噛みながら店員が訊く。

「想像もつかないでしょうね」

 現金で払った。記録は残さない。

 アパートに戻り、洗面台の縁にそれらを一列に並べる。

 説明書には三分待てとある。

 バスルームのマットに座り込み、膝を抱えた。タイルのひび割れを見つめる。心拍数を数える。速くなったり遅くなったり、めちゃくちゃだ。

 お願い、神様。ここまで来るのは本当に大変だったの。奨学金も、昇進も、全部自分で勝ち取ってきた。西宮の屋敷の客室から抜け出すために、必死で生きてきたのに。

 引き戻さないで。あいつのせいでなんて、絶対に嫌。

 時間だ。

 立ち上がる。足が鉛のように重い。無理やり視線を向ける。

 一本目。

 二本のピンクの線。くっきりと、容赦なく。

 二本目。

 青いプラスマーク。

 三本目。

『PREGNANT』

 空気が一瞬にして消え失せた。

「嘘」掠れた声が出る。

「嘘、嘘、嘘……」

 妊娠している。

 父親は、西宮弥介。

 あの宿敵。あの億万長者。かつて私に、「お前じゃ物足りない」「本物じゃない」と言い放った男。

 スマホが震えだした。長く、しつこく。

 手探りで掴み取る。熱い涙で視界が滲んだ。

 白木からのメッセージだ。

『姉御、早く復活してくださいね。ビッグニュース。内部通達が来ました。買収の噂、マジです』

『来週、西宮弥介がスタジオに視察(に来ます』

『首席調香師のポートフォリオをご指名です。つまりあなた。😉 狙いは会社? それともガラの夜の続編希望?』

 画面を見つめる。ウインクの絵文字が私を嘲笑っているようだった。

 そしてもう一度、洗面台の上の三本の陽性反応を見る。

 私の狭い、けれど必死で積み上げてきた人生。そこに亀裂が入ったなんてもんじゃない――壁ごと崩れ落ちてしまった。

 彼はやってくる。

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