第4章

 翌日、私のいわゆる「平穏な再スタート」は、正確に言うと昼の十二時十五分までしか持たなかった。

 私は和臣とレストランでランチをしていた。これは二回目の「デート」——契約について話し合うためのビジネスランチだ。少なくとも自分にはそう言い聞かせていた。

「シトラスノートはもう少し鋭さが必要だね」和臣はスズキを切り分けながら言った。

「春のコレクションとの——」

「ここ、空いてるか?」

 テーブルの上に影が落ちた。

 顔を上げなくても誰だか分かる。その声には、金のかかった傲慢さと、笑みを含んだ敵意が滲んでいた。

 弥介だった。スーツのボタンを留めながら、私の隣の空席に滑り込んでくる。返事を待つ気などさらさらないようだ。

「弥介」私は鋭い声を上げ、フォークを皿にカチャンと落とした。

「ここで何してるの?」

「昼飯だ」彼は悪びれもせず言い、指を鳴らしてウェイターを呼んだ。

「今期、君のスタジオに出資してるのは俺だろ? 自分の資産の様子を見に来るのは当然の権利だと思ってね」

 彼は和臣に向き直った。

「藤澤、見ての通りだ。彼女、もう退屈し始めてるぞ」

 和臣は口元を拭い、動じた様子も見せずに言った。

「西宮さん、私たちは仕事の話をしています。プライベートな仕事の話を」

「彩羽にプライベートな仕事なんてない」弥介は気だるげに言い、バスケットからグリッシーニを掴み取った。

「あるのは仕事と睡眠だけ。それも、どっちも足りてない」

 そして私を見た。値踏みするような視線。

「エビを頼んだな」弥介はグリッシーニで私の皿を指した。

「エビなんて」

「それが?」

「君はエビが嫌いだ。礼儀のために食べてるだけだろ」彼は和臣に冷ややかな笑みを向けた。

「十年の科学展の時、エビのカクテルを渡してきた審査員の機嫌を損ねたくない一心で食べて、全身蕁麻疹だらけになった。風船みたいに膨れ上がってな。俺が保健室まで担いでいく羽目になったんだ」

「風船になんてなってない!」私の顔がカッと熱くなる。

「見た目はフグそのものだったぞ、彩羽。ひどく野心的で、ひどく頑固なフグだ」

「弥介、失せろ」私は歯噛みした。

「俺は藤澤の医療費を節約してやってるだけだ」彼は背もたれに寄りかかり、腕を組んだ。

「続けてくれよ、和臣。君の『ビジョン』とやらを聞かせてやれ。彼女を着せ替え人形にして、法外な値段のスカーフを売る手伝いをさせるんだろ?」

 和臣はナプキンをテーブルに戻した。

「『支配』を『配慮』と履き違えているのは、僕ではなく君の方だと思うがね、弥介」

 二人の間の空気がバチバチと音を立てる。まるで静電気とホルモンが衝突しているようだ。

「トイレに行く」私は勢いよく立ち上がって宣言した。

「男のプライド比べがしたいなら、私のいないところで勝手にやって」

 私は早足で洗面所へ向かった。

 中に入り、鏡の中の自分を睨みつける。頬は紅潮し、目は輝いている。怒り狂っているように見える。

 だが、気づいてしまった。

 口の端が——微かに引きつっていることに。

 私はただ怒っているだけじゃない。私は……生き返ったのだ。血管を駆け巡るアドレナリン。和臣と一緒にいる時の感覚とは程遠い。

「だめよ」鏡に向かって低く呟く。

「彼はトキシックだわ。子供っぽくて、それに私の上司」

 でも、その笑みは完全には消えなかった。

 会社に戻ると、戦火はすでに私の領域まで広がっていた。

 弥介は神出鬼没だ。

 午後二時、デスクのダブルエスプレッソに手を伸ばした。一口飲んで、危うくむせそうになる。

 ぬるい。ハーブの味。カモミールだ。

 私は勢いよく振り返った。弥介がラボのドア枠に寄りかかり、スマホをいじっている。

「私のコーヒーは?」

「カフェインは……ストレスによくない」彼は顔も上げずに言った。

「それに震えてるぞ」

「震えてるのは殺意のせいよ!」

「お茶を飲め、栗山。オーガニックだ。君の靴より高いやつだぞ」

 午後三時、宅配便が届いた。巨大な箱だ。

 白木がチェシャ猫のような笑みを浮かべて運び込んでくる。

「『謎の崇拝者』からよ。カードの署名は『マネジメント』だって」

 箱を引き裂く。

 中身は花でもチョコレートでもない。

 六つの大瓶に入ったマルチビタミン。それに鉄剤。幼児くらいの大きさがあるプロテインの巨大な容器。

 プロテインの蓋には、弥介特有のせっかちで乱暴な走り書きのメモが貼られていた。

『死体みたいな顔してるぞ。栄養を摂れ。ラボで倒れでもしたら、母さんが栗山夫人は娘をモヤシに育てたのかってうるさいからな。母親に恥をかかせるな』

 私はメモを握りつぶした。

「彼、どうかしてる」私は歯ぎしりし、ビタミン剤をすべて引き出しに放り込んだ。

「わざと私を発狂させようとしてるのよ。馬鹿にしてるんだわ」

 白木は私のデスクの端に腰掛け、プロテインの容器を手に取った。

「ハニー、これは馬鹿にしてるんじゃないわよ」

「和臣に私のことフグだって言ったのよ!」

「デートを邪魔したのよ」白木は訂正した。

「コーヒーをすり替えて、……健康サプリを買い与えた」彼女は首を振って笑う。

「いじめてるんじゃないわ、彩羽。彼はディスプレイをしてるの」

「ディスプレイ?」

「そう、孔雀みたいにね。羽を広げてバサバサやって、大声で叫んでるのよ。『これは俺のものだ! 俺のものに触るやつは目玉をつついてやる!』ってね。原始的な本能、縄張り意識よ。結構セクシーじゃない」

「これはハラスメントよ!」

「これは、恐怖よ」白木は優しく言った。

「彼を見て」

 ガラス越しに外を見る。弥介は会議室に座り、四半期報告書を見ているふりをしていた。だがその目は画面など見ておらず、私のドアを死に物狂いで凝視していた。

 私はくしゃくしゃになったメモを掴み、大股で出て行った。

 弥介は回転椅子を回してこちらを向いた。

「やっと来たか。ちょうどいつ礼を言いに来るか——」

「頭おかしいんじゃないの?」私はメモをマホガニーのデスクに『バン!』と叩きつけた。

「ランチを邪魔して、飲み物を勝手に変えて、あんなものまで送りつけて……」

「鉄分が必要だ」彼の声は平坦だった。

「顔色が悪い」

「顔が白いのは毎日ラボに引きこもってるからよ! それに父親面しないで。あなたは私の父親じゃないし、弥介、彼氏でもない。友達ですらないわ」

「君を本当に見ているのは俺だけだ!」彼は怒鳴り、勢いよく立ち上がった。

 突然の大声に私は驚いた。彼はデスクを回り込み、私に詰め寄った。

「藤澤が気にかけてるとでも思うか? あいつが本当に君を見ていると思うか?」弥介は冷たく短い笑い声を上げた。

「あいつが見ているのは履歴書だ、彩羽。『数々の賞を受賞した調香師』、自分の大量生産ファッションに芸術的な箔をつけてくれる人材。あいつが欲しいのはトロフィーだ」

「彼は少なくとも私を尊重してくれてる!」私も怒鳴り返し、彼に向かって一歩踏み出した。

「私が何を望んでいるか聞いてくれるわ! 私をモノ扱いしたりしない!」

「あいつは君のことなんて何も分かっちゃいない!」

 弥介は私の肩を掴んだ。力が強い。そこには絶望が滲んでいた。

「あいつは知らないだろ。君が議論に負けそうになると爪を噛む癖があることを。君が必死に働くのは、自分がただの凡人なんじゃないかって怯えているからだってことを。君がどれほど頑固で、扱いにくくて、周りの人間を発狂させるほどの完璧主義者かってことを!」

 息が止まる。

 彼の瞳は狂気じみた漆黒で、何かが燃えていた。

「あいつが求めているのは幻想の彩羽だ」弥介は声を落とした。その声はざらついていた。

「だが俺は、本当の君を知っている。混乱して、怒りっぽくて、死ぬほど賢い君を。そして俺は……」

 言葉が途切れた。

 部屋の中の静寂が、耳をつんざくほどに重い。

「あなたは、何?」私は小声で尋ねた。

 彼は私を見つめ、胸を激しく上下させている。

「俺は——」彼は口を開きかけたが、奥歯を噛み締めた。

「俺は、あいつに俺の投資を台無しにさせるわけにはいかない」

 私は身震いした。安堵すると同時に、言いようのない失望が胸に広がる。

「くたばれ、弥介」

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