第2章 見知らぬ男
片瀬澄乃が祈ることしかできずにいた、そのときだった。
救いのように、スタッフの冷えた叱声が響く。
「おい、お前は何者だ。ここで何を騒いでる」
「人を探してるんだよ」
脂ぎった男が、不機嫌さを隠そうともせず吐き捨てる。
「そんな相手はここにはいない。さっさと失せろ。中にいる方へ迷惑でもかけたら、お前なんか十人いても到底償えない」
男はなおも不満げに舌打ちしたが、さすがに頭まで悪いわけではなかったらしい。J市には自分などでは手を出せない相手がいくらでもいる――それくらいは理解しているのだろう。ぶつぶつと悪態を垂れながら、ようやく去っていった。
片瀬澄乃は扉にもたれかかる。背中ににじんだ冷や汗でドレスが肌へ張りつき、ひやりとして、むず痒い。
そこで初めて、自分がとんでもない人物の縄張りへ逃げ込んでしまったのだと気づいた。
出たい。
けれど、出られない。
岡野がどこで待ち伏せしているか、分かったものではない。
今のこの身体で、あの男の手から一度でも逃げ切れたのは奇跡に近い。二度目を切り抜ける力など、もう残っていなかった。
出られない。
絶対に。
片瀬澄乃はかすかな望みにすがる。さっきこの部屋にいた人間は、もう出ていった。しばらくは戻らないかもしれない。少なくとも今の彼女にとって、ここ以上に安全な場所は思いつかなかった。
張りつめていた神経がほんの少しゆるんだ瞬間、押さえ込んでいた熱が一気にぶり返す。どろりとした熱波が血管を伝って手足の先まで這い回り、指先までもが異様に赤く染まっていった。
部屋の中はぞっとするほど暗い。
かすかな灯りが漏れているのは、浴室だけだった。
浴室――。
そうだ。冷たい水を浴びれば、少しは楽になるかもしれない。
片瀬澄乃は人目につくのが怖くて、リビングの灯りはつけなかった。足音を忍ばせ、壁づたいに浴室へ近づく。指先がひやりとしたドアノブに触れた、その瞬間だった。
中から、押し殺したようなくぐもった呻き声が聞こえた。
――誰かいる?
ためらいながら、そっと扉を細く開く。
立ちのぼる湯気の向こう。
大きなジャグジーの中に、男がひとり座っていた。
服は脱いでいない。黒いシャツはぐっしょりと濡れ、肌へ張りついている。そのせいで、引き締まった肩から背中にかけての線がくっきりと浮かび上がっていた。しかも浴槽の水には氷が浮いている。どう見ても、氷水だ。
男はうつむいていた。濡れた前髪が額から垂れ、大半の顔を覆い隠している。見えるのは、きつく結ばれた薄い唇と、硬く張った顎の線だけ。全身から、近づくなと言わんばかりの痛みと、必死に耐える気配がにじみ出ていた。
片瀬澄乃は思わず口元を押さえ、一歩あとずさる。
――何、これ。
だが、浴槽の男は気配に気づいたのか、鋭く顔を上げた。
湯気の中でも、目だけがぞっとするほど冴えている。氷で研いだ星みたいなその視線が、まっすぐ片瀬澄乃の動揺した瞳を射抜いた。
その頃の瀧本知暁は、頭がひどく重く、視界も霞んでいた。浴室の入口に立つ人影が、ぼんやり輪郭を保っているだけだ。
「……失せろ」
しゃがれた声が、低く落ちる。
「え……?」
片瀬澄乃には聞き取れなかった。けれど、この男も明らかに普通ではない――それだけは分かる。
「だ、大丈夫ですか」
おそるおそる声をかける。体内を焼く熱のせいで喉は砂を呑み込んだようにひりつき、声までかすれていた。今すぐここを離れるべきだと理性は告げているのに、苦しんでいる人間を見捨てて自分だけ逃げることが、どうしてもできない。
瀧本知暁は答えない。
ただでさえ険しかった眉間の皺が、さらに深くなる。
――誰だ。こんな真似をしたのは。
自分に薬を盛るなど、いい度胸だ。犯人を見つけ出したら、J市から生きて帰れると思うな。
今回は油断した。
幸い、アシスタントが異変に気づいて個室まで運び込んだおかげで、最悪の事態だけは避けられたが……。
それにしても、アシスタントは下がらせたはずだ。
命令を無視して戻ってきたのか?
黙り込んだままの瀧本知暁を見て、片瀬澄乃は力の入らない足を引きずるように浴槽へ近づいた。様子だけでも確かめようと手を伸ばす。
その指先が彼の腕に触れた、次の瞬間だった。
ぐい、と手首を掴まれる。
瀧本知暁の掌は、焼けるように熱かった。氷水に浸かっている身体とは、まるで釣り合わない熱。
片瀬澄乃はびくりと肩を震わせ、とっさに振りほどこうとする。
だが、拘束はさらに強くなる。
瀧本知暁は、もともと他人に触れられるのを好まない。まして見知らぬ相手など論外だった。
それなのに、片瀬澄乃の身からふわりと漂ってきた、石けんにも似た清潔な香りと、少女らしいやわらかな匂いが鼻先をかすめた瞬間――不思議と、心がわずかに鎮まった。薬に煽られて荒れ狂っていた衝動が、ほんの少しだけ静まる。
けれど、曖昧になった意識の中では、その安らぎさえも危うい火種だった。
片瀬澄乃の指先のひんやりした感触。
甘くやさしい香り。
それらが導火線となって、かろうじて押し殺していた欲を一息に燃え上がらせる。
薬のせいで、もはや自制はきかなかった。
不意の接触は、致命的だった。
瀧本知暁は乱暴に腕を引き、片瀬澄乃ごと浴槽の中へ引きずり込む。
ばしゃり、と氷水が跳ねた。
冷たい水は一瞬でドレスを芯まで濡らした。なのに片瀬澄乃は、寒さをほとんど感じない。瀧本知暁の身体が、炎の塊みたいに熱を放ち、ぴたりと彼女を包み込んだからだ。
「や……離して……」
慌てて身をよじり、必死に抗う。
けれど、力の差はあまりに歴然としていた。
瀧本知暁の荒く低い息が、耳もとをかすめる。そこには、ぞくりとするほど危うい気配が絡みついていた。
次の瞬間、唇を奪われる。
有無を言わせぬ、強引で切迫した口づけだった。激しく押し寄せるその熱に、片瀬澄乃の言葉はすべて飲み込まれていく。
唇から顎へ。
顎から、細い首筋へ。
触れられるたび、そこだけ火が移ったみたいに肌が灼けた。
片瀬澄乃の頭は真っ白になる。体内を暴れる熱と、瀧本知暁が与える衝撃とが絡み合い、二つの濁流となって身体の内側でぶつかり合う。
抵抗したい。叫びたい。
なのに喉は塞がれ、こぼれるのは細い嗚咽だけ。
やがて、本能が理性を押し流した。
抗うための力が、少しずつ指先から抜けていく。
浴室には、水音と荒い呼吸が複雑に絡み合っていた。氷水の冷たさと、体内で燃え盛る熱。その相反する刺激が、二つの敏感な身体を何度も揺さぶる。
濡れそぼった黒いシャツは肌に貼りつき、滑らかな筋肉の線を容赦なくなぞっていた。髪先から落ちる雫が、片瀬澄乃の鎖骨を伝って流れ落ちる。
首元のブルーサファイアのネックレスが、ひややかな光を返す。
その冷たい輝きが、かえって彼女の危うさを際立たせていた。
いったん開いた欲望の裂け目は、もう止まらない。
肌を重ねるだけでは。
唇を貪るだけでは。
薬に煽られた男の本能は、到底満たされなかった。
瀧本知暁はふいに唇を離す。
熱を帯びた荒い息が、片瀬澄乃の頬にかかる。
夜の底みたいに昏いその目の奥で、彼女には理解できない激しい感情が渦巻いていた。
次の瞬間、片腕だけで片瀬澄乃を抱き上げる。
「きゃ……っ」
短い悲鳴が漏れ、反射的に彼の首へしがみつく。視界がぐらりと反転し、次の瞬間には、柔らかなベッドへと投げ出されていた。
その上から、瀧本知暁の長身が覆いかぶさる。
片瀬澄乃には、いまだに彼の顔がはっきり見えない。
ただ、触れるところすべてから伝わってくる熱だけが、現実だった。
意識は覚醒と沈溺の境で何度も引き裂かれ、揺さぶられ――最後には、押し寄せる大きな波に呑み込まれるように、完全に沈んでいった。
どれほど時間が経ったのか。
やがて瀧本知暁の体内から薬の効き目はようやく抜けきり、彼は深い眠りへ落ちた。片瀬澄乃もまた、とっくに意識を失っている。
暗闇の中では、二人の顔はもうよく見えない。
ただ、真っ白なシーツに残された血の痕だけが――ひどく鮮やかだった。
