第3章 逃走

片瀬澄乃は、下腹を裂かれるような痛みで目を覚ました。

昨夜の熱が引いたあと、身体に残っていたのは骨の髄まで染みるような冷えと、全身がばらばらになったみたいな鈍い痛みだけ。はっと目を見開いた先にあったのは、見覚えのない天井、重たいカーテン――そして隣で眠る男の姿だった。

昨夜の記憶が、堰を切ったように押し寄せてくる。薬を盛られたあとの眩暈。岡野の下卑た笑い。裸足で廊下を駆けた惨めさ。それから――浴室での制御不能のもつれ合いと、ベッドの上で何度も呑まれた熱のうねり。

片瀬澄乃の頬が一気に熱を帯びた。羞恥と恐怖が蔓のように心臓へ絡みつき、ぎりぎりと締め上げてくる。

見知らぬ男と、こんな……。

だめ。相手が目を覚ます前に、ここを出なきゃ。

身につけていたドレスは、とうにずたずたに裂かれていた。片瀬澄乃は仕方なく瀧本知暁の服を身にまとった。彼が目を覚ましたあと何を着るかなんて、彼女の知ったことではない。

片瀬家の別荘の前まで戻り、片瀬大介にどうしてこんな真似をしたのか問いただそうとした、そのときだった。

耳へ飛び込んできたのは、しゃがれた脂っこい男の声。

「片瀬大介、どういうつもりだ? 小生意気な娘ひとりに、さんざん振り回されやがって。昨夜は危うく痛い目見るところだったんだぞ。きっちり落とし前つけてもらおうか」

続いて聞こえたのは、片瀬大介の媚びた笑い声だった。

「岡野さん、どうかお怒りをお鎮めください。あれは世間知らずでして、こちらが甘やかしすぎました。ご安心ください。今夜は私自ら、娘をお部屋までお連れします。きちんとお詫びさせますので。二度と勝手な真似はさせません」

「ふん、最初からそうしとけ。あの女にもよく言っておけよ。俺に気に入られたんだ、ありがたく思えってな」

「はい、もちろんです。おっしゃる通りで」

片瀬澄乃には、その先はもう何も入ってこなかった。

雷にでも打たれたみたいに、全身の血が一瞬で凍りつく。下半身の裂けるような痛みはまだくすぶっている。それでも、胸の奥に広がる氷の冷たさに比べたら、そんなものは痛みのうちにも入らなかった。

やはり、片瀬結希ひとりの企みじゃなかった。

実の父親が、自分を権力者へ差し出すための駒にしたのだ。昨夜の薬も、今夜の「詫び」も――すべて最初から仕組まれていた。

耐えていれば、いつか母の御華ファッションを取り戻せると思っていた。せめて最後の思い出だけは守れると、そう信じたかった。

けれど、このままでは――その時まで生き延びられない。

片瀬澄乃は唇を強く噛みしめた。血の味が広がるまでそうして、どうにか泣き声を呑み込む。涙はもう、とっくに枯れていた。残っているのは、骨を蝕むような寒気と、刺すような決意だけ。

ここには、いられない。

絶対に。

この先も片瀬家に、自分の人生を好きにされるわけにはいかなかった。

……

瀧本知暁の眉間には、まだ剣呑な気配が残っていた。今回の薬物騒ぎは、明らかに自分を狙ったものだ。手口は陰湿で、仕掛けるタイミングも完璧に近かった。アシスタントがすぐ異変に気づかなければ、どうなっていたかわからない。

視線が、ベッドシーツの中央に残る暗赤色へ落ちる。すでに乾いた血の痕。その色を見つめる彼の目は、深く沈んでいた。

昨夜の女は、いったい誰だ。

記憶はところどころ曖昧だ。ただ、彼女から漂っていたほのかな清香。首元で肌に触れた、青いサファイアのネックレス。そして腕の中で小さく震えながら抵抗していた、あのかすかな動きだけは妙にはっきり残っている。

あれほど我を失ったことは、一度だってなかった。まるで彼女だけが、体内で暴れ回る熱を鎮める薬だったかのように。

目が覚めたら問いただすつもりだった。なのに、まさか逃げられるとは。

それどころか――。

瀧本知暁の視線が床のカーペットへ滑る。自分の服がない。持っていったのか。

彼はスマートフォンを取り上げ、アシスタントの伊崎大輝へ電話をかけた。声音は冷え切っている。

「昨夜、俺の部屋に入った女を調べろ」

電話の向こうで伊崎大輝が一瞬息を呑み、すぐに応じる。

「承知しました、瀧本社長。昨夜の個室前は監視の死角がありますが、廊下とエレベーターの映像は確認できます。すぐ調べます。あわせて情報封鎖もかけますか」

「いや、必要ない」

瀧本知暁は淡々と告げた。

「知りたいのは、その女の全部だ。何者なのか、洗い出せ」

自分の目の前へ踏み込んできて、事が終われば黙って姿を消し、おまけに服まで持ち去った女。そんな真似をした相手の正体を、確かめずにはいられない。

伊崎大輝は気圧されるように返した。

「かしこまりました。すぐに動きます」

通話を切ると、瀧本知暁は窓辺へ歩み寄り、重たいカーテンを引き開けた。朝の陽光がどっと差し込み、室内の隅々まで白く照らし出す。だが、その光ですら彼の目の奥に沈む探求心までは照らせない。

予感があった。

あの女とは、これきりの他人では終わらない。

窓枠を指先でとん、とんと軽く叩きながら、彼は遠くに並ぶ高層ビル群へ目を向ける。眸はひどく深い。

まだ名も知らないあの女が、このまま逃げ切れるはずがない。

――もっとも、先のことはともかく、少なくとも今この瞬間だけは、片瀬澄乃は逃げ切っていた。

国内のどの街へ行こうと、片瀬大介ならコネを使って見つけ出すだろう。

だったら、行く先はひとつしかない。

海外。

息が詰まるこの土地から離れて、あの人たちの手が届かない場所へ。

片瀬家の人間が目を離した隙を見て、片瀬澄乃はこっそり自分の部屋へ忍び込んだ。パスポート、ビザ、それに母が密かに残してくれていた預金口座のキャッシュカード。それらを急いで鞄へ押し込む。

そして振り向いて部屋を出ようとした、その瞬間だった。

首にかけていたネックレスが、クローゼットの扉の隙間に引っかかった。

ぱちん。

小さな音とともに留め具が切れ、母の形見である細かなブルーサファイアのネックレスが、カーペットの上へ落ちる。

片瀬澄乃の胸がひゅっと縮んだ。反射的に身をかがめ、拾おうと手を伸ばす。だが、部屋の外から足音が近づいてきた。

「まずい……!」

もう迷っている暇はない。ネックレスを諦め、鞄を掴んで窓へ走る。排水管を伝って地面まで滑り降り、そのまま再び塀を越えて逃げ出した。

タクシーに乗り込み、車窓の向こうで片瀬家の別荘がだんだん遠ざかっていくのを見て、ようやく振り返る余裕ができた。その途端、目の奥がじわりと熱くなる。

あのネックレスは、母が遺してくれた最後の形見だった。

それなのに今の彼女には、引き返して拾いに戻る勇気すら、もう残っていなかった。

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