第4章 お前の子?

片瀬結希はスリッパのまま階段を下りようとして、片瀬澄乃の部屋の前を通りかかったとき、カーペットの上できらりと光るものをふと目にした。

「ん?」

気になって近づき、腰をかがめて拾い上げる。青いサファイアのネックレスだった。古臭いデザインで、見たところ大した値打ちはなさそうだ。

だが、このネックレスには見覚えがあった。片瀬澄乃のあの母親が遺したもので、澄乃は以前、毎日のように身につけていた。大事に、大事に。

どうしてこんなところにあるの?

まさか、今朝、片瀬澄乃が家に戻ってきていた?

だとしたら――今夜、片瀬澄乃を岡野に差し出す話。あれを聞かれた……?

いや、まさか。そんな都合よく。

片瀬結希はネックレスを指先でくるりと二度回し、目に露骨な軽蔑と憎悪を滲ませた。

「ほんっと面倒くさい。おとなしく岡野さんの相手してればいいのに、何を騒いでるのよ」

そのとき、不意にインターホンが鳴った。

片瀬結希は片瀬澄乃が戻ってきたのかと思い、あわてて階下へ駆け下りる。

今度こそ、絶対に逃がさない。

今夜は何があっても岡野の相手をさせる。

あの味を、あの屈辱を――あの女にも思い知らせてやる。

執事が扉を開けると、ほどなくして黒いスーツを隙なく着こなした、切れ者らしい男を応接間へ案内してきた。男は真っ直ぐリビングの中央まで進み、鋭い目で室内をひと巡りさせたあと、片瀬結希へ視線を定める。

「失礼します。こちらは片瀬大介様のお宅でお間違いありませんか。私は瀧本グループのアシスタント、伊崎大輝と申します。少々、お話をうかがいたく参りました」

瀧本グループ――。

片瀬結希の胸が、どくりと嫌な音を立てた。J市でその名を知らない者はいない。あの一族の力を。

どうして急に、うちへ?

まさか――昨夜の件?

それでも顔には作り慣れた笑みを貼りつける。

「はい、そうです。私は娘の片瀬結希です。伊崎さん、ご用件は何でしょうか」

伊崎大輝の視線が、彼女の顔、そして手元に二秒ほど留まった。

昨夜の監視映像に映っていた人影はぼやけていて、顔までは判別できなかった。だが体つきは、目の前の女とどこか似ている。

そのうえ、手には社長が口にしていた青いサファイアのネックレス。

伊崎は表情ひとつ変えず、静かに口を開いた。

「昨夜、世志ホテルの28階にある個室へ、そちらのご家族が出入りされた心当たりはありますか」

――

六年後、J市。

VIPラウンジの大きな窓の向こうで、航空機のエンジンが低く唸っていた。瀧本知暁は柱にもたれ、松のように真っ直ぐ立っている。その周囲だけ空気がひやりと張りつめ、近づくだけで刺さりそうな冷気をまとっていた。

「知暁! 何度言ったらわかる! わしはまだ死んじゃおらん! 毎日毎日そんな仏頂面をしおって! そんなだから、いい歳して子どももおらんのだ!」

瀧本の祖父が杖を床へどんと突きつけ、眉をぐいと吊り上げる。まるで毛を逆立てた獅子だった。

瀧本知暁は胸の内でだけ、無言のため息をついた。

「祖父さん、搭乗口の案内が始まっています」

「何が案内だ。案内されるべきはお前のほうだろうが!」

祖父はずいっと身を乗り出し、声を荒げる。

「六年だぞ! 片瀬家のあの女と六年もずるずるやっておいて、腹にひとつも結果が出ん! どういうことだ! お前が駄目なのか、あっちが駄目なのか! 知暁、病気なら病気で、さっさと医者に見せんか!」

言いながら、杖の先で瀧本知暁のふくらはぎをつつく。

瀧本知暁は喉仏をひとつ上下させたが、何も言わない。

「……まさか、本当にお前のほうが駄目なのではあるまいな?」

祖父は急に声を潜め、きょろきょろと周囲を見回した。これから病院を紹介しようとした、その瞬間。

瀧本知暁は無言でクッキーを一枚、祖父の口へ押し込んだ。

もぐもぐと二口ほど噛んでから、祖父は顔をしかめる。

「何だこれ、まずいな。どこの料理人が作った」

「片瀬結希が、祖父さんのために焼いたクッキーです」

その名前を聞いた途端、祖父は意地で飲み込もうとしていたクッキーを、その場でぺっと吐き出した。

「わしはあの娘の作ったものなど食わん!」

怒声が飛ぶ。

「あの娘は腹の中が真っ黒だ! この前の家の宴でもそうだ。わしにスープをよそって、わざと手を滑らせてズボンにぶちまけおったくせに、あとで使用人には『おじい様がご自分でこぼされたんです』などと言いよる! わしをボケた年寄りだと思っとるのか! 替えろ! さっさともっとまともで堅実な女に替えんか!」

そう言って、瀧本知暁の腕をぺしりと叩く。

「祖父さん、俺のことは――」

「お前のことだから、わしのことだ!」

祖父が急に声を張り上げたせいで、近くにいたスタッフがちらりとこちらを見る。

「六年前、お前がどうしてもあの女を家に置くと言い張ったときから、わしは言っておった! あれは面倒を呼ぶ顔だとな! なのにお前は聞きもせん! ほれ見ろ、こうなった!」

どすんとソファに腰を下ろし、今度は拗ねた子どものように口を尖らせる。

「隣の前谷家のひ孫はな、この前もわしの首にしがみついて『ひいじいちゃん』と呼んでくれたぞ……。しかもミルク飴までくれた。お前のその仏頂面より、よほど可愛いわ」

瀧本知暁は眉間を押さえた。

若いころは商界で鬼神のように辣腕を振るった祖父も、老いてからはすっかり筋金入りの頑固じいさんだ。とくに「子ども」の話になると止まらない。顔を合わせるたび、何百回でも同じことを言う。

だから知暁は、できるだけ会う回数を減らしてきた。

今回は祖父が旧友に誘われ、P国へ療養に向かうことになった。実の孫として、空港まで見送りに来ないわけにもいかなかっただけだ。

知暁はうんざりして口を閉ざし、

祖父は祖父で、情けなさと腹立たしさから不機嫌に黙り込む。

二人のあいだに、重い沈黙が落ちた。

そのときだった。

背後から、澄んだ子どもの声が飛び込んでくる。

「ママー! ママ、待ってー!」

石が湖面へ投げ込まれたみたいに、静まり返っていた空気がぱっと揺れた。

青いサロペット姿の男の子が、小さな砲弾のように駆けてくる。だが瀧本の祖父の二歩手前で足を滑らせ、どしんとカーペットへ転んだ。手にしていたウルトラマンの人形が、ころころと転がって瀧本知暁の足元で止まる。

祖父は「おっ」と声を上げるや否や、ソファからばねのように跳ね起きた。若者にも負けない身のこなしで子どもを抱き上げる。

「危ない危ない! 大丈夫か、坊や! どこをぶつけた、見せてみろ!」

その慌てぶりは本気だった。事情を知らない者が見れば、本当の祖父が孫を抱き上げたようにしか見えない。

男の子は膝をさすりながら顔を上げた。まつげには涙の粒がきらりと残り、目はまん丸に見開かれている。

そのいじらしい様子に、祖父の心は一瞬でとろけたらしい。

腕を持ち上げたり、肩を確かめたりとあちこち見たあと、祖父は突然ふり返って叫んだ。

「知暁、ちょっと来て見ろ! この鼻! この口! お前の小さいころとそっくりじゃないか!」

瀧本知暁の眉が、わずかに寄る。

目尻のかすかな吊り方。

きゅっと結んだときに少し下がる口角。

眉をひそめたとき、眉間にできる浅い皺まで。

たしかに、旧邸のアルバムで見た幼い自分に、驚くほど似ていた。

もし三十余年の人生で、片瀬結希という女と一度きりしか関係を持っておらず、しかもその女に出産歴がないと知っていなければ――自分の子ではないかと疑っていたかもしれない。

だが、この子の目はあまりに明るすぎる。

黒曜石みたいに光を含み、怯えた顔をしているくせに、その奥には年齢に似合わない冷静さが潜んでいる。

ほぼ間違いなく、仕組まれた罠だ。

競合相手が仕掛けてきた、新手の工作――そう考えるのが自然だった。

一方、祖父も祖父で、見れば見るほど顔色を変えていった。ついには子どもをソファに座らせ、両手を腰に当てて瀧本知暁を睨みつける。さながら取り調べでも始めるような目つきだ。

「知暁、正直に言え。この子……お前の子ではないのか?」

ラウンジの空気が、ぴしりと凍りついた。

さっきまで膝をさすっていた男の子まで動きを止め、大きな目をぱちぱちさせながら、祖父と無表情な瀧本知暁を見比べている。小さな顔いっぱいに、驚きが浮かんでいた。

瀧本知暁は身をかがめ、足元のウルトラマンを拾い上げる。プラスチック製の頭を指先でつまみながら、低く言った。

「祖父さん、何を言ってるんです。あるわけないでしょう」

当然、祖父は納得しない。ずいっと一歩詰め寄り、声をさらに張る。

「どうしてないと言い切れる! この子はお前の子どものころに瓜二つだ! お前のでなければ誰のだ! 何年か前に外でどこかの女と――」

「ありません」

瀧本知暁は断ち切るように言い放った。

「俺に子どもはいない」

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