第2章

 真樹がドアの前に立ちふさがった。

「馬鹿な真似はやめろ」彼は私の手首を強く掴んだ。「俺は一晩中ここにいたんだ。一睡もせずに、あの子が処置を受けるのを見守ってた。それなのにお前は家に帰って休み、戻ってきたと思ったらこの癇癪か? 少しは頭を冷やせ」

 一晩中。よく言うわ。

 乾いた笑いが込み上げてきそうだった。

 前の人生の最期になって、ようやく点と線が繋がったのだ――あの日、彼は莉々を見守ってなどいなかった。咲良と一緒にいたのだ。莉々に薬を盛り、検査結果を偽造するには、一晩という時間が必要だったから。そして私の愛する義母工藤里美も、その片棒をしっかりと担いでいた。仮病を使って私を家に呼び戻し、病院から遠ざけるために。

「娘が死にかけている母親に向かって、頭を冷やせですって?」私は彼を睨みつけた。「昨夜、私がなぜいなかったか忘れたの? あなたの母親が『心臓が苦しい』なんて電話を寄こしたからよ。私が一晩離れただけで、莉々は一般病棟からICU行き。単なる偶然だとでも言うの?」

 彼の表情が一瞬、強張った。だが、すぐに元通りになった。

「母さんを責めるな。俺のせいにするのもやめろ。これは莉々の運が悪かっただけだ。さっきは同意書にサインすると言ったのに、今さら撤回か? 少し感情的になりすぎてるんじゃないのか?」

 彼に費やす言葉など、もう一言だって惜しかった。今重要なのはたった一つ。莉々をこの場所から連れ出すことだ。

 私は彼を突き飛ばし、スマホを取り出すと、この六年間一度もかけなかった番号をダイヤルした。

 真樹と結婚した時、両親は猛反対した。父はあいつはろくでなしだと言い、母は彼のために絵を諦めるなんて後悔すると言った。私は聞く耳を持たなかった。この街に引っ越し、連絡をすべて断ち、一からやり直そうとしたのだ。

 真樹は言った。誰にも頼りたくない、二人だけで人生を築き上げよう、と。私はそれを信じた。生活のために宝石を一つずつ売り払い、自分の描いた絵を次々と彼に渡しては、彼の名で発表させた。何者でもなかった彼を、『新進気鋭の画家』に仕立て上げるために。

 だが今、莉々を救えるのは、私が背を向けた家族しかいなかった。

 コール音が二回鳴るか鳴らないかのうちに、母が出た。

「お母さん……」それだけ言うのが精一杯で、涙が溢れ出した。

 二秒の沈黙。そして、鋭く切迫した母の声が響いた。「何があったの? どうしたの!」

「莉々が……お願い、娘を助けて……転院させたいの、最高の病院を、探して……」

 母は、なぜ六年ぶりに電話してきたのかとは聞かなかった。余計な質問は一切なかった。「待っててね、絵里奈」と言い、電話は切れた。

 五分後、父から折り返しがあった。最高の医療チームを編成中だという。二時間。あと二時間で彼らが到着する。

 私は通話を切り、壁の時計を見上げた。

 二時間。たった二時間、持ちこたえればいい。

 ICUの外で、真樹が追いついてきた。

「こんなところで突っ立って何してるんだ? 騒ぎを起こすのはやめろ。さっさと書類にサインしてこい。チームが待機してるんだぞ」

 私は彼を見なかった。

「絵里奈!」彼は声を荒げた。「何が望みだ? サインしないまま、莉々をただ寝かせておくつもりか? それがお前の計画かよ!」

 私は振り返った。「莉々があの中で生死の境をさまよってるのに、あなたの頭の中にあるのは娘の臓器を取り出すことだけ。あなた、それでも父親なの? 吐き気がするわ」

 彼はたじろいだ。だがすぐに父親らしい心配顔を取り繕った。

「なんてことを言うんだ。あの子は俺の血を分けた娘だぞ……辛いに決まってる。だが、あの子はもう……」

「三ヶ月前よ」私は彼の言葉を遮った。「臓器提供のドキュメンタリーを見ようって言い出したのは誰? 家族揃って、まるで映画鑑賞みたいに」

 彼は口を閉ざした。

 あの夜のことを覚えている。莉々はソファに座り、袖で涙を拭っていた。「お母さん、あの子たちかわいそう。わたし、大きくなったら人助けがしたいな」五歳の子供だ。死の意味さえよくわかっていなかった。けれど、その優しさは本物だった。

 真樹は彼女の頭を撫でて言った。「いい子だ」

 今ならわかる。あれは褒め言葉ではなかった。確認作業だったのだ。下準備は終わった、という。

 これは突発的な出来事じゃない。彼は何ヶ月も前から、この計画を練っていたのだ。

 私は彼を平手打ちした。

 乾いた音が廊下に響き渡った。真樹はよろめき、頬に手をやった。彼はまるで知らない人間を見るような目で私を見つめた――実際、そうだったのだろう。六年の結婚生活で、私が手を上げたことも、声を荒らげたことも一度としてなかったのだから。

 彼が何か言うより早く、私のスマホをひったくり、両手で私の腕を締め上げた。

「来い。今すぐだ!」

 その時、里美の声が廊下の向こうから響いてきた。

「何事なの!?」駆け寄ってきた彼女は、真樹の腫れ上がった頬を見て激昂した。「絵里奈! あんた、息子を叩いたの!? 気が狂ったんじゃないの? 莉々が病気になったのは誰のせいでもないでしょう! さっさと書類にサインして終わらせなさいよ! あの子はもう助からないのよ、これ以上引き延ばして何になるの!」

 この女だ。昨夜、嘘の緊急事態で私を呼び戻したのは。邪魔者を排除したのは、この女だ。

「離してよ! 私はどこへも行かない!」

 二人は私の両脇を抱え、出口へと引きずり始めた。

 二人相手では振りほどけない。

 だから私は叫んだ。

「助けて! 誰か、暴力を振るわれてます!」

 看護師たちが走ってきた。だが、真樹の顔だと気づいた途端、足が鈍る。

 彼は笑顔を貼り付けた。「何でもありません。妻が少し情緒不安定でしてね。大丈夫ですから」

「もし彼らを止めないなら、このフロア中の家族が見に来るまで叫び続けてやるわ!」

 看護師たちは顔を見合わせると、渋々といった様子で割って入り、私たちを引き離した。

 真樹は怒りで顔を真っ赤にしていた。だが周りに人がいる中で騒ぎを大きくするわけにもいかず、手を離した。

 私は息を整え、時計を確認した。

 あと一時間半。

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