紹介
私はサインした。
そして娘の心臓が摘出され、別の子供――夫の愛人の息子――に移植されるのを見た。
夫は何ヶ月も前から計画していたのだ。偽の診断、たまたま夫の大学時代の元恋人だった医師、夫の母が私を病院から引き離した夜、彼らは私の幼い娘に薬を盛った。
真実を知った時、夫は私を殺した。
でも何故か、私はあの机の前で目を覚ました。同じペン。同じ書類。同じ嘘つきの顔が、私のサインを待っている。
今度はサインしない。今度は、彼らに代償を払わせる。
チャプター 1
消毒液の強烈な臭いが、喉の奥にへばりついて離れない。
私は病室のベッドを見つめた。莉々は無数のチューブや機械の山に埋もれていて、毛布の下の小さな体はほとんど形をなしていない。顔色は蒼白だったが、頬だけが赤く染まっていた。それは健康的な赤みとは程遠い、忌まわしい不気味な色だった。
戻ってきたのだ。この部屋、このベッド、この胸が悪くなるような臭い――すべてが同じだ。私は以前、これを経験した。この後、私は死んだはずだ。それなのに、なぜかまたここに立っている。
彼女に伸ばす手が震える。指先は温かかった。まだ、温かい。
止めようもなく、涙が溢れ出した。
「なあ、、絵里奈。一度外に出よう」
背後から真樹の声がした。冷静で、揺るぎない。まるで会議でも進行しているような口調だ。
看護師にドアの方へ促され、私は無理やり莉々の手を離した。廊下の先にある小さな事務室へと、彼についていく。
彼は私にペンを握らせ、机の上の書類を指差した。
「君も見ただろう。これ以上延命措置を続けるのは、あの子の苦しみを長引かせるだけだ」彼は書類――臓器提供承諾書――を指で叩いた。「サインしてくれ。あの子を楽にしてあげよう」
その声色。抑揚のない、まるで練習してきたかのような響き。
私の中で、何かがプツリと切れた。スイッチが切り替わったかのように、涙が一瞬で乾く。
私はペンを机に叩きつけ、私の肩に置かれた彼の手を乱暴に払いのけた。
「サインはしない。莉々は脳死なんかじゃないわ」
彼が凍りついた。
「絵里奈……以前話し合ったじゃないか。診断結果も見たはずだ。ここは市内でも最高の病院なんだぞ。これ以上、何を望むんだ?」
これ以上、何を望むか、だと?
私は彼の目を見つめた――驚きと心配を必死に演じているその目を。だが、私には分かっていた。その瞳の奥に潜む毒蛇の正体が、はっきりと見える。
前回の人生で、私は彼の言葉をすべて信じ込んでいた。
莉々は自己免疫疾患で入院していた。以前にも治療を受けたことのある、同じ病気だ。決して命に関わるようなものではなかったはずだ。それなのに、あの日、私が病院を離れた夜に容体が急変してICUに運ばれた。
私が戻ったときには、担当医の神崎咲良先生から、莉々は脳死状態だと告げられたのだ。
神崎咲良。真樹の大学時代の恋人。その事実を私が知ったのは、ずっと後のことだった。
事態を飲み込む間もなく、真樹は私をこの机まで引きずってきて、ペンを握らせた。
「莉々はいつも優しい子だった。あの子の命は、他の誰かを救うことができる。きっとあの子もそれを望んでいるはずだ」
私は打ちのめされていた。半ば脅されるように、半ば言いくるめられるようにして、サインをしてしまったのだ。
私が知らなかったこと。それは、呼吸器が外された瞬間、莉々の心臓がそのまま咲良の息子――重い心臓病を抱えて生まれた少年――に移植されたという事実だ。
私が悲しみに溺れている間、真樹は何事もなかったかのように振る舞っていた。
そしてある日、隣街のアート展で彼を見かけた。彼は小さな男の子を肩車していた。咲良が彼に寄り添っている。三人は笑いながらギャラリーから出てきた。まるで理想的な家族のように。少年のシャツの襟元からは、手術の痕が覗いていた。
私は彼らを追いかけ、問い詰めた。そして、屋上のテラスから突き落とされたのだ。
三階からの落下。コンクリートの感触。後頭部から叩きつけられた。
死ぬ瞬間、私はまだ莉々のヘアゴムを握りしめていた。小さなピンク色のゴム。そこにはまだ、あの子の髪の毛が何本か絡まっていた。
何度も諦めようと思った。けれど、あの最期の瞬間、彼らの笑顔を見たとき、私の中に残っていた柔らかな感情はすべて怒りの炎に焼き尽くされた。
そして今、私はここにいる。この机の前。手にはペン。目の前には書類。真樹が私のサインを待っている。
私はペンを放り投げ、彼を突き飛ばした。
「サインはしない。それから、莉々を別の病院に移すわ。今すぐにね」
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