第1章
七海と風間悠希が結婚して三年目――風間悠希は浮気をした。
七海は書斎の椅子に座ったまま、パソコンの画面にたった今表示されたチャットの文面を、呆然と見つめていた。
——【悠希、最近ちょっと太った気がするの。ウェディングドレス、変に見えないかな?】
その下には写真が添えられている。
顔は映っていない。上から撮った、首から下だけの全身。
誇らしげな胸、細い腰、きめ細かく長い脚……。
若さが隠しきれないほど滲んでいて、目を離せない。見れば見るほど、もっと知りたくなる。そんな一枚だった。
頭から水を浴びせられたみたいに、背筋がひやりと冷える。
冷たさが、骨の隙間にまで染みていく。
結婚して三年。
彼の心に、ほんの少しでも自分の居場所があると――七海は思っていた。
だって、あのとき。
風間悠希が事故で植物状態になったあと、最初から最後まで彼のそばにいたのは七海だった。身体を拭き、マッサージし、治療に付き添い……。
三年かけて、医師に「目覚める可能性は薄い」と言われたところから、目を開け、リハビリを重ね、完全に回復するまで。
最近は風間婆さんの要望で、二人の結婚式を改めて挙げ直すことになった。
七海は、悠希が嫌がるんじゃないかと不安だった。
けれど意外にも、招待状の文面から会場決めまで、彼はやけに積極的だった。
――ようやく、願いが叶う。そう思った。
なのに、今は……。
七海は瞬きをする。鼻の奥がつんと痛んだ。
するとまたメッセージが届く。
【どこまで来た? 私、ドレスショップで待ってるね。最初にあなたに、ドレス姿を見てほしいの】
胸の奥が、鈍く痛んだ。
悠希がさっきあんなに慌てて出ていったのは、この愛人からの電話のせいだったのだ。
――見てやる。
いったい誰が、あの冷静な風間悠希を狂わせたのか。
午後三時。七海はウェディングドレスショップに到着した。
扉をくぐった瞬間、見覚えのある後ろ姿が鏡の前でドレスを眺めているのが目に入る。
その体つきは、写真の通り。
そして振り返った少女の顔を見た刹那、七海は滑稽さに笑いそうになった。
――水原美月。
血の繋がらない姉妹であり、陽城で「本物の水原家のお嬢様」として扱われている女。
「……姉ちゃん?」
水原美月はぱっと振り向き、驚いたように目を見開く。
「どうしてここに……」
怯えたふりをして二歩ほど下がり、逃げ場がないと悟ると、ドレスの裾をぎゅっと握って、おずおずとこちらを見た。
「来なかったら、あなたが私のドレスを着て浮かれてる姿、見られないでしょ」
七海は近づく。声は淡々としていて、逆に恐ろしいほどだった。
「ち、違うの……」
「何が違うの?」
水原美月が言いかけた言葉を、七海の冷えた視線が切り捨てる。
「私のウェディングドレスを着てない? それとも、自分の義兄を誘惑してない? そんなに人のものを奪うのが好きなら、病気だよ」
容赦のない嘲りに、水原美月の頬がかっと赤くなる。
怒りと悔しさが混ざり、とうとう仮面を捨てた。
「何が“あなたのドレス”よ?」
「そもそも、私が婚約を譲ってあげたから、あんたは悠希と結婚できたんでしょ。でなきゃ、こんなところで私に偉そうにできるわけないじゃない!」
七海はその堂々たる言い草を見て、ただ可笑しかった。
――最初にそれらを持っていたのは、自分なのに。
八年前。
七海は下校途中に誘拐され、売られた。
両親と風間悠希が必死に探しても見つからず、代わりに「七海に似ている」水原美月を養子に迎え、心の拠り所にした。
月日が流れるほど、美月は明るく愛想よく振る舞い、いつしか七海の居場所を奪っていった。
七海が地獄から這い上がって戻ってきた頃には、水原家にはもう“七海の席”がなかった。
だから――風間悠希が事故で植物状態になったとき。
七海は迷わず、身代わりの結婚を引き受けた。
何もないからこそ、過去と繋がるものを、どんな形でも掴みたかった。
風間悠希の妻になることが、たとえ一生、形だけの結婚になるとしても。
水原美月の甘ったるい声が、耳の奥で響く。
「姉ちゃん。どうせ悠希兄、あんたのこと好きじゃないんだし、私に譲ってくれたっていいでしょ?」
「結婚して何年? 一度も触れられてないんでしょ。でも悠希は私には、毎晩すごく優しいよ……」
挑発が刺さり、七海は反射的に手を上げた。
――だが。
振り下ろす前に手首を掴まれ、乱暴に弾き飛ばされる。
冷ややかな眉目の男が、水原美月の前に立っていた。
風間悠希。
「何をしてる」
氷のような声。
水原美月は彼を見るや、目尻を赤く染めた。
「悠希……姉ちゃんを責めないで。わざとじゃないの。私が悪いの、着ちゃいけないドレスを……」
風間悠希は七海を冷たい目で見下ろし、短く命じる。
「謝れ」
……謝れ?
その一言が、七海の神経を斧で叩き割った。指先が震える。
夫が。
自分に、浮気相手へ謝れと言った。
七海は皮肉に口角を上げた。
「風間悠希。私のドレスを他の女に着せておいて、今さら私に謝れって?」
「ドレス一着だろ。美月が試したいって言っただけだ。お前が後で着るのに支障はない。いちいち騒ぐな」
風間悠希は眉をひそめ、七海を“面倒な女”でも見るような目をした。
「それに、そもそも……お前が美月の婚約を奪ったんだ」
頭の中が、ぶうんと耳鳴りを立てた。
胸の奥が、きりきりと痛む。
――まだ、美月を。
悠希はずっと美月を想っていたのだ。
事故で彼が植物状態になったその日に、彼女は迷わず彼を捨てたというのに。
七海は目の奥が熱くなり、言葉を区切って告げた。
「謝れって言うなら……無理」
吐き捨てて踵を返す。
その背に、悠希の冷えた声が落ちた。
「謝らないなら、今後この店に入るな」
「ドレスがそこまで大事なら、自分で作れ」
脅しのような口調が、見えない手で心臓を掴んでくる。
七海は振り返り、かすれる声で問う。
「……どういう意味?」
風間悠希は淡々と答えた。
「陽城のドレスショップ全部、お前を断るようにする。予定通り式を挙げたいなら、自分の手で一着仕立てろ」
唇に、薄い嘲り。
「そうすれば、誰にも着られない」
世界が一瞬、遠のいた。
七海は彼の顔が、急に知らない男のように見えた。
「彼女のために……私を脅すの?」
「脅しじゃない」風間悠希は冷たく言う。「警告だ」
喉に綿が詰まったみたいに、声が出ない。
三年。一千日以上。
愛はなくても情くらいはあると、勝手に信じていた。
――最初から最後まで、自分だけが滑稽だった。
舌の奥が苦い。苦すぎて視界まで滲む。
それでも七海は歯を食いしばり、言い切った。
「それでも、私は絶対に謝らない!」
そう言って、店を出た。
帰宅してから、七海はソファに座り込んだまま動けなかった。
空が明るい色から暗へと沈み、外で車のエンジン音がした。
はっとして玄関を見る。
風間悠希が入ってくる。
仕立ての良いスーツ。整った眉目。気品。
七海と目が合った瞬間、悠希は眉を寄せた。
「電気をつけないのか」
七海は黙って見つめ返す。
風間悠希は眉間に皺を寄せた。
「お前は彼女に手を上げるべきじゃなかった。今夜、謝りに行け」
「無理。そう言った」
七海の声は揺れない。
風間悠希は額を押さえ、疲れたように吐息を落とす。
「七海、お前は大人だ。勝手を通せばどうなるか分かるだろ。風間家と水原家の提携は深い。お前の我儘で崩せるものじゃない」
「遅くとも明日の午後三時までに、必ず謝れ」
それだけ言って、階段を上がっていく。
――提携のため?
七海は静かに言った。
「行かない」
悠希の足が止まる。声に苛立ちが混じった。
「お前の意思じゃ決められない」
決められない?
七海は拳を握りしめる。
抑えつけていた感情が、一気に逆流した。
無数の針が心臓を刺すみたいで、視界が白く霞む。
……いい。
汚れた男なんて、いらない。
七海は顔を上げ、悠希の背に、一言一言叩きつけた。
「じゃあ、離婚しよう」
