第2章

男は声を聞いた刹那、猛然と振り向いた。高い位置に立ったまま、氷みたいに冷えた目で彼女を見下ろす。言葉にならない圧が、七海の喉を締めつけた。

「……何だと?」

静寂の中に、風間悠希の冷えた声が落ちる。

七海は彼を見返し、淡々と、それでいて揺るぎなく繰り返した。

「言ったでしょ。私たち、離婚しよう」

風間悠希が眉をひそめる。

「俺が謝りに行けと言ったからか」

「そう」

七海は頷いた。

心の中に水原美月しかいない男なんて、欲しくもない。

風間悠希の表情が一気に冷えた。常に上に立つ者の威圧が、七海の呼吸を奪う。

「七海。離婚は、意地で口にする言葉じゃない」

彼が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

「今回が最初で最後だ。二度とそんなことを言うな」

七海は首を横に振った。

「意地じゃない。本気」

その一言がどこかを刺激したのか、風間悠希の気配が鋭く、冷たく尖る。

けれど七海はもう探らない。

「風間悠希。あなたと水原美月、好きにすればいい」

次の瞬間、風間悠希が七海の手首を掴み、頭上へ乱暴に押し上げた。

「好きに? お前が何様だ。俺のことを決める資格があると思うな」

七海は胸の奥で苦く笑った。

――そうだ。彼に、私の“許し”なんていらない。

彼はもう、何も感じないまま眠り続ける植物状態の男ではない。

結婚して三年。医師に「目覚めはほぼ望めない」と言われても、七海は手を離さなかった。

昼も夜も彼のそばにいて、時間を決めて体位を変え、按摩し、話しかけ続けた。来る日も来る日も。

その積み重ねの先で――風間悠希は、奇跡みたいに目を覚ました。

それから七海はリハビリにも付き添った。

身体が思うように動かず癇癪を起こし、「出ていけ」と怒鳴られ、罵られても、離れなかった。

半年後。風間悠希は自分の足で立った。

噂はすぐに広がった。界隈は驚き、七海の“運”を羨み、そして囁いた。

――いつ捨てられるんだろう、と。

そんな話の中で、風間悠希は風間婆さんの意向に従い、結婚式を改めて挙げ直すことを選んだ。

会場選びから式のテーマ、ウェディングドレスの形、料理まで。彼はすべてに付き合い、驚くほど真剣だった。

だから七海は思ってしまったのだ。

少しは自分を、心に置いてくれているのだと。

けれど現実は、ただの独りよがり。

七海は視線を落とす。

「ごめん。余計なお世話だったね。……だったら、早く離婚しよう」

「七海!」

風間悠希が怒鳴る。

七海はわざと軽い調子で言った。

「もしかして風間社長、私が惜しい? 残念。もう飽きたの」

風間悠希の顔が墨を流したように沈む。鋭い視線で七海を射抜き、歯を食いしばった。

「……いい。上等だ。後悔するなよ!」

乱暴に扉が閉まる音がして、風間悠希は出ていった。

七海はしばらく硬直していたが、急に全身の力が抜けた。ソファに崩れ落ち、涙が音もなく頬を伝う。

三十分後。七海は弁護士へ電話をかけた。

「髙橋先生。離婚協議書を作ってください。財産は放棄します。私は身ひとつで出ていきます」

少しだけ間を置き、喉の奥の苦さを噛み潰して続ける。

「理由は……夫が妻の基本的な要求を満たせない、で」

通話を切ると、七海はすぐ荷造りを始めた。

決めたなら、長引かせない。迷えば、きっと弱さが顔を出す。

――けれど滑稽なことに。

広い別荘の中で、七海の私物は驚くほど少なかった。

持ってきた服と、半箱の本だけ。復健と栄養学の本ばかり。何も知らなかった自分が、風間悠希のために必死で読み込んだもの。

荷物をまとめていると、扉が勢いよく開いた。

去ったはずの風間悠希が戻ってきていた。手には、離婚協議書。彼はそれを見て冷たく笑う。

「満たせない?」

呆れたように笑い、目が細く鋭くなる。

「風間奥様は欲求不満で騒いでたってわけか。なら、今日満たしてやる」

風間悠希は大股で近づき、七海が言葉を挟む隙すら与えず、ベッドへ放り投げた。

「風間悠希、何するの!」

七海の声が裏返る。

男の体が覆いかぶさる。淡い木の香りが鼻を突き、感覚を奪う。神経が、ぎりぎりまで張り詰めた。

「やめて!」

七海が叫ぶと、風間悠希は簡単に両手首を押さえつけ、頭上に固定した。

体勢のせいで、七海は嫌でも男へと身体を寄せさせられる。

服の下に隠していた線が、容赦なく露わになる。誇らしげな胸の丸み、くびれた腰、もがいた拍子に覗く鎖骨――。

風間悠希の瞳が、暗く濁った。

自分の妻が、こんな身体をしていたとは。

「風間悠希、放して!」

七海が暴れるたび、男の呼吸が重くなる。

彼の手が服の裾から入り込み、指先が胸を強く揉みしだく。ざらりとした感触――薄い胼胝を帯びた指が、形を変えるみたいに執拗に弄ぶ。

耳元で、低く囁いた。

「放したらどうやって満たす。奥様」

最悪だった。

一語一語、わざとゆっくり。温い息が耳を撫で、そのたびに七海の身体がびくりと震える。

「いらない!」

七海が歯を食いしばる。

風間悠希は聞かない。手はさらに下へ移り、秘めた場所を、軽く摘んだ。

「……っ」

七海は堪えきれず、掠れた声を漏らしてしまう。

その反応に、風間悠希の表情がほんの少しだけ緩む。

七海の頬が羞恥で熱く染まる。

「風間悠希……そんなに飢えてるなら水原美月のとこ行けば? 汚い。あなたなんて」

――その一言で、室内の熱が一瞬で凍りついた。

風間悠希の顔が、寸分ずつ冷えていく。

「……何だと?」

七海の心臓が跳ねた。けれど引けない。

「汚いって言った」

彼の手が、あの女の身体にも触れていたのだと想像しただけで、胃の奥がむかつく。

風間悠希は怒り極まって、かえって笑った。

「……よく言ったな」

勢いよく起き上がり、七海を冷えた目で一瞥すると、背を向けて出ていった。

絡み合いで上がった体温は、あっという間に冷める。

七海はゆっくり横向きになり、身体を丸めた。

しばらくして、首元のネックレスを外し、ロケットを開く。

中には、幼い頃の自分と風間悠希の写真。

あのとき真剣な顔で「守る」と言ってくれた兄のような少年は、時の流れの中に、とうに消え去ってしまったのだろう。

今いるのは、水原美月を愛する風間悠希だけ。

涙が勝手に溢れる。

過去に縋っていたのは、自分だけだった。

父も母も、風間悠希も。

もう先へ進んで、新しい生活を抱きしめている。

七海は写真を見つめたまま、しばらく動けなかった。

それから、ロケットをゴミ箱へ放り投げた。

最後の服をスーツケースに押し込み、部屋を見回す。

広い別荘。けれど、ここに自分の居場所はない。

七海はキャリーケースの持ち手を握り、未練ひとつ置かずに――振り返らず、出ていった。

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