第5章 見事な濡れ衣と陥れ

言葉の端々に滲んでいるのは、七海は何もできない、風間悠希と一緒になってからどれだけ楽をしているか――そんな当てこすりばかり。

笑わせないで。

あの頃、彼のそばで回復を支え、屈辱も痛みも飲み込んできた日々を……まさか「はいはい」で片づけるつもり?

七海が黙っていると、水原美月の瞳に、狡猾な光がちらりと走った。

次の瞬間、美月はシートベルトを外し、ドアを開ける。

「姉ちゃんがずっと私を警戒してるのは分かる。でも安心して。悠希と行くのは本当に“用事”だけだよ。……姉ちゃんは帰ったら? どうせ来ても役に立たないし」

そう言いながら、今度は七海のすぐ横のドアまで開けてしまい、出入口に立ったまま彼女を見下ろす。無邪気で、害なんてないと言わんばかりの顔。

まるで七海のほうが、ここにいるべきじゃない邪魔者みたいだった。

……いい。

そこまで言うなら、場所くらい譲ってやる。

七海が車を降りて足をついた、その瞬間だった。

水原美月が、開けたドアに手をついたまま、わざとらしいほど大きくのけぞって倒れ込んだ。

バンッ――

スマホが地面に叩きつけられ、砕ける音。

あまりに突然で、七海は一拍、反応が遅れる。

「……あんた――」

言いかけた途端、美月の涙が、糸の切れた凧みたいにぽろぽろ落ちた。

「姉ちゃん……どうしてこんなこと……」

七海の眉がきつく寄る。

「は? 私が何を――」

「七海! 何してる!」

風間悠希の怒声が響き、次いで彼が駆け寄ってくる。迷いなく美月のそばへ膝をつき、抱き起こした。

美月は骨がないみたいに悠希にもたれ、消え入りそうな声で訴える。

「大丈夫、悠希……。私、姉ちゃんに嫌われてるの分かってるから。全部私が悪いの。来なきゃよかった……生まれてこなければよかった……」

そう言いながら身を引こうとし、右手が悠希の腕に触れた瞬間――

「っ……」

引っ込める。顔が苦痛で歪んだ。

悠希の表情が変わる。

「手、やったのか?」

美月は青い顔で右手首を押さえ、強く首を振った。

「違う、平気……悠希兄。私が悪かった。姉ちゃんを怒らせちゃって……。でも大丈夫、試合のことは全力でやるから。心配しないで。私、先に行くね」

立ち去ろうとする美月を、悠希は引き寄せて抱きしめる。

庇うように七海を睨みつけ、低く吐き捨てた。

「問題はお前だ」

そして、そのまま毒を投げつける。

「七海、お前は美月に嫉妬してる。それだけじゃない、今回は人に手まで出した。俺と美月は、お前が思ってるような関係じゃない。今日は会社のレーシング大会の件だ。美月が代表で出る。練習に送るのは当然だろ」

言葉が、さらに冷たく尖る。

「汚い目で全部を見て、自分と同じレベルに落とすな」

胸に雷が落ちたみたいだった。

美月のためなら、こんな残酷な言葉でも、平気で七海へ刺してくる。

レーシング大会の話は知っている。水原美月が腕の立つドライバーだということも、界隈では有名だ。会社代表に選ばれるのは、確かに不自然じゃない。悠希に私情がない可能性だってある。

――それが、何だ。

七海は淡々と言う。

「あなたたちがどれだけ汚いかは、あなたが一番分かってるでしょ。私は一度だけ言う。彼女を突き飛ばしてない」

悠希が、呆れたように笑った。

「……じゃあ何だ。美月がわざとやったって言うのか?」

七海は目を逸らさない。何も言わなくても、答えは視線に出ていた。

やっていないことを、認めるつもりはない。

美月は一瞬だけ顔色を沈めたが、すぐに殊勝なふりをして声を落とす。

「悠希兄……私の不注意だったってことでいい。姉ちゃんと喧嘩しないで。私のせいで二人の関係にヒビが入るの、嫌なの」

口ではそう言いながら、七海を見る目は、挑発で満ちている。

案の定、その誘導で悠希の怒りは七海へ固定された。

「七海。美月はお前のことを思ってるのに、お前は……本当に性根が腐ってる」

息を吐いて、続ける。

「安田恵の指導がある。今日は見逃してやるが、さっきのことは許さない」

安田恵――その名は七海にも聞き覚えがあった。

レーシング界で名を轟かせる、世界トップクラスのドライバー。

美月にとって、彼女の指導が必要なのは事実だ。今回の相手は強い。優勝候補は、悠希の宿敵――牧野龍哉。

三年前、悠希が植物状態になりかけた事故はレースが引き金だった。事故前の悠希は有名なレーサーで、天賦と努力で勝ち続けていた。牧野龍哉は常に二位。押さえつけられ、鬱屈を溜め込んでいた。

悠希が事故で走れなくなると、牧野龍哉が当然のように一位になった。悠希が目覚めてからも、牧野は何度も挑発した。「二度と立てない廃人」だと。

それが、悠希が何度も死にたくなった理由のひとつ。

立ち直ってからも、事故の影は消えない。重い心的外傷後ストレス障害。治療でハンドルは握れても、実力は昔に戻らなかった。

――だからこそ、水原美月の存在が、彼にとっての“光”になったのだろう。

七海は冷えた目で悠希を見た。

美月が強いのは認める。けれど牧野龍哉とは、比べものにならない。安田恵の指導がなければ勝負にならない。

ただし――安田恵が、本当に来るなら、の話だ。

「悠希、もういいよ。私ほんとに平気」美月が柔らかく笑う。「七海がわざとじゃないのも分かってる。安田先生と約束の時間なんだ。遅れたら来てもらえないし」

安田恵はトップレーサーでありながら、公の場に顔を出すことが少ない。普段はヘルメット姿で、女だということしか知られていない。

美月は金と人脈を注ぎ込み、ようやく取りつけた指導だ――そういう話も七海は耳にしていた。

……だからこそ、滑稽だった。

まさか美月は、安田恵が自分のために来ると、本気で信じているのか。

悠希は我に返ったように美月の手首を見て、表情を少しだけ和らげる。

「手首、大丈夫か」

「平気だよ」

そのやり取りを終え、悠希の視線が七海へ戻る。声はまた冷える。

「お前は自分で帰れ」

そう言うと悠希は美月を支え、車へ乗せた。

七海はその場に立ち尽くし、冷えた息を吐く。

「……いいよ」

そして、最後にだけ言い置いた。

「二人とも……後悔しないでね」

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