第6章 百八人も子を産ませるつもりか
風間悠希は七海を一瞥すらせず、水原美月のために丁寧にドアを開けてやった。ドアを閉めると、そのまま運転席へ回り込み、何事もなかったように車に乗り込む。
窓ガラス越しに、七海ははっきり見た。美月がこちらを見たときの、あの得意げな目。
――ほらね。ちょっと手を出せば、悠希は必ず私の味方。
悠希は座り直すと、自分のシートベルトを締めるより先に美月へ身を寄せた。助手席側のベルトを引き、慣れた手つきで彼女の胸元へ通して留める。
その瞬間、美月はわざと胸を張り、引いた腕に柔らかい膨らみを押し当てる。
それを見た七海の口元が、冷たく歪んだ。
美月は挑むような顔で、声も出さず唇だけを動かす。
――あなたには勝てない。
家族も、男も。全部、七海から奪うという目。
七海は一歩、後ろへ退いた。ゆっくり上がっていく窓を見つめ、深く息を吸う。
我慢は一度きり。二度目はない。
「……恥知らず」
窓が三分の一ほどまで上がったところで、七海の声は車内へ届いた。
「クズ男と泥棒女。そんなに一緒がいいなら離婚すれば?」
「私と悠希が離婚しない限り、美月はずっと“表に出せない浮気相手”のまま。二人で堂々と一緒にもなれないでしょ」
「何が楽しくて、こんなところで縛り合ってんの。さっさと離婚して別れなよ。結婚する日には横断幕も贈ってあげる」
「『クズ同士、お似合いだね。一生添い遂げて、子供を百八人作ればいい』ってね」
吐き出し終えると、胸の奥の澱がすっと引いた。悠希がこちらを見る顔など気にも留めず、七海は踵を返す。
美月は、ここまで直球で殴られるとは思っていなかったのか、挑発の表情が一瞬で固まり、ひび割れた。はっと我に返ると、真っ先に悠希の顔色をうかがう。
怒りは見える。けれど――想像していたほどではない。
それが、余計に怖かった。自分が罵られたからなのか、離婚という言葉に触れられたからなのか。判別がつかない。
美月が口を開きかけた、そのとき。
コンコン、と窓を叩く音。
振り向くと、去ったはずの七海が戻ってきて、助手席の外に立っていた。
美月は訝しみながらも窓を下ろす。
七海は冷たく笑った。
「言い忘れてた」
「――あの人、ダメだから」
それだけ言い捨てると、七海は白目をむくように視線を切り、今度こそ振り返らずに歩き去った。悠希にさえ、余計な一瞥すらやらない。
美月の顔が強張る。怒りが込み上げるが、悠希の前で爆発させるわけにはいかず、爪が食い込むほど拳を握って飲み込んだ。
呼吸を整え、向き直る。さっきまでの挑発は影も形もない、柔らかな笑みを作る。
「悠希……姉ちゃん、あなたのことが大事すぎるから、ああいう言い方になっただけだよ。気にしないで」
悠希は返さない。
美月はそれでも、わざとらしいほど困ったようにため息を落とした。
「……でも、姉ちゃんの言い方は確かにひどいよね」
「悠希兄、私が間に挟まって、困らせちゃってごめんね」
そう言いながら身を寄せ、抱きつこうと腕を伸ばす。
だが次の瞬間、悠希は何気ない仕草で身体を引き、元の位置へ座り直した。カチッ、とシートベルトを締める音。
そして、淡々と告げる。
「手の傷、気をつけろ」
七海のことには一言も触れない。
その無関心が、美月の笑みを崩しかけさせた。
悠希の指がスタートボタンの上で止まる。迷うように宙を漂い――次いで、彼の視線がルームミラーへ移った。
美月はその目線の先を追い、膝の上の手をきゅっと握り込む。
ミラー越しに見ているのは――七海の背中。
そこに宿るものが、美月には読めない。分からないからこそ、胸の底が冷えていく。
このままじゃだめだ。
美月は言葉を探し、探り当てる。
「悠希……姉ちゃんと、離婚するの?」
その瞬間、悠希はエンジンをかけた。
返事はエンジン音に飲まれたみたいに曖昧で、美月の耳に残ったのはそれだけ。
「時間がない」
――逃げた。
そう理解した途端、美月の喉がひゅっと詰まる。
悠希自身はまだ気づいていないのかもしれない。けれど無意識の視線が、すでに証明している。
悠希は七海に、少なくとも好意を持っている。
なら、気づく前に潰す。
七海を、悠希の心の中で腐らせる。臭わせる。触れたくなくなるほど嫌悪させる。
そうしなければ――奪えない。
美月の瞳に、硬い決意が灯った。
一方で。
七海はクラブの前へ戻り、小林玲奈に電話をかけた。
呼び出し音が鳴るより早く、玲奈がスマホを手に正門から飛び出してくる。
「七海!」
玲奈は手を振りながら駆け寄ってきて、勢いのまま七海の前で立ち止まった。
「なんで一人? 悠希は?」
周囲を見回しても、風間悠希の姿はない。首をかしげた玲奈に、七海は淡々と答える。
「心の中の月のところ」
皮肉がありありと滲む。玲奈が聞き逃すはずもなく、眉をひそめた。
それでも、さっきから引っかかっている疑問の方が勝ち、玲奈は身を乗り出して小声で耳打ちする。
「ねえ七海。いま誰もいないし、正直に言って」
「悠希がダメって……ほんとなの?」
七海は力なく首を振った。
「分かんない」
「え?」
玲奈の目が丸くなる。「分かんないって、どういうこと?」
七海自身、笑えてしまう。
結婚して三年。二人は一度も同じベッドで眠ったことさえないのだから、確かめようがない。
七海は大きく息を吐き、話を切った。
「どうでもいい。クズ男の話やめよ」
玲奈はすぐに頷く。
「うん。あんたが何を決めても、私は味方」
そして思い出したように、話題を変える。
「サーキット行くって言ってなかった? まだ出発してないの?」
七海の顔がわずかにこわばり、さっきの光景が脳裏をかすめる。鼻で笑った。
「行かない」
「面倒が増えるだけのこと、もうしない」
七海は玲奈の肩に腕を回し、無理にでも笑って言った。
「ご飯、おごる。行こ」
