第7章 もう一度会いたい
長年の付き合いの小林玲奈が、七海の強がりの仮面の下にどれほどの悲しみが隠れているか、見抜けないはずがなかった。
玲奈は小さく息を吐き、目に滲む痛みに耐えきれないようにする。
「よし! もう考えるのやめ! 今日は楽しくいこう。ご飯、私が奢る! ほら、行くよ。出発!」
友だちがそばにいる。――今の七海にとって、それがいちばんの救いだった。
その頃。
風間悠希はすでに車を走らせ、西郊外のサーキットに到着していた。
車を降りるなり、彼は水原美月を医務室へ連れていく。手当てをする、という建前だったが、医師の診立ては「軽い捻挫。大したことはない」。
それでも美月は「すごく痛い」と繰り返し、結局、湿布と包帯でぐるぐる巻きにされることになった。
練習が始まると、悠希はピット脇に腰を下ろし、会社の案件を捌きながら、時おり顔を上げて彼女の走りを追う。
二本走っても美月の調子は上がらない。何度かバリアに擦り、鈍い音がサーキットに響いた。
眉間に深く皺が刻まれる。
勝てるかどうか以前の問題だ。この状態で走らせ続ければ、怪我をする。
悠希は口を開いた。
「今日はここまで。止めよう」
美月が車を降りた瞬間、顔色は紙みたいに白かった。彼の前で俯き、指先で袖口をくしゃりと捻る。
「悠希、わたし……今日、手首をやっちゃってるから、調子が悪いだけなの。少し休めばまた走れる。次は絶対、こんな初歩的なミスしない」
言外に滲むのは、七海に押されたせいで手首を傷めた――という含み。
悠希は深追いしなかった。
「休め。今のまま続けても意味がない」
美月は唇を噛み、こくりと頷く。
「うん……安田先生が来たら、その指導でゆっくり立て直す」
言いながら、ふと首を傾げる。
「……でも変。約束の時間なのに、まだ来ない」
美月はスマホを取り出し、登録してある番号へ発信した。コール音だけが虚しく続き、いつまで待っても繋がらない。
そのとき、LIMEの通知が跳ねた。
【水原さん、安田先生から30分前に連絡があり、指導依頼をお断りされました】
美月は息を呑み、トーク画面を開く。
送ってきたのはサーキットのオーナーだった。美月が金と伝手を使って、ようやく安田恵へ繋げてもらった相手であり、ずっと橋渡しをしてきた人物。嘘をつく理由などない。
胸の奥がすとんと沈む。美月はそのまま通話をかけた。
繋がるなり、声が尖る。
「どうして?」
オーナーは困ったように息を吐いた。
「詳しい事情は私にも……ただ、水原さん。安田先生の機嫌を損ねるようなこと、しましたか?」
「会ったこともないのに?」
「それなら私にも分かりません」
オーナーは言い淀み、しばらくの沈黙のあと、覚悟を決めたように続けた。
「安田先生から、あなたと風間さんに伝えてほしい言葉があると……」
さらに間が空く。
「……『あなたたちはクズだ。教える価値がない』そう言いました」
スピーカーにしていた美月の隣で、悠希の顔が見る見るうちに冷えた。
胸の奥に、言いようのない鬱屈が膨らんでいく。
――ずっと前のことだ。
事故に遭う前。植物状態になる以前。レーサーとしての腕も、まだ失っていなかった頃。
若くして名を上げた悠希は、才能と努力で勝ち続け、サーキットでは敵がいなかった。牧野龍哉は常に二番手で、隣にいてもろくに視線すら届かない。
無敗。
それが当たり前だった。
だが、陽城レーシングチャンピオンシップ。
そこで現れた一人の少女が、彼の連勝を断ち切った。
ヘルメット姿のまま、改造された2012年式の日産GT-R。
極限のスピード。狂気じみたコーナリング。
その走りが姿を現した瞬間、会場は爆発したように沸いた。
結果は圧勝。
悠希は生まれて初めて、「負け」を味わった。
不思議と悔しさはなかった。ただ、心からの敗北宣言だけが胸に残った。
ただし――少女は最後までヘルメットを外さなかった。
誰も素顔を見られないまま、レースが終わると彼女は去っていった。悠希は一言も交わせなかった。
後に主催者から名だけ聞いた。
安田恵。国際的にも名の通ったレーサー。世界トップクラスの実力を持ちながら、表舞台には出ず、連絡先だけが残されている――そんな存在。
それから長い間、どのレースに出ても彼女はいなかった。
そして四年前。
ある大会で、安田恵はふいに戻ってきた。再び、圧倒的な差で優勝をさらって。
今度こそ後悔は残したくなくて、悠希は自分から歩み寄った。
「こんにちは」
声をかけると、少女はレーシングスーツを整える手を止め、こちらを振り向いた。
相変わらずヘルメット。淡い空色に、子どもの落書きみたいな可愛らしい絵が散っている。
「何か?」
初めて聞いた声は、澄んでいた。
真夏の熱を冷ます小川のせせらぎみたいに。
「連絡先、交換できないか」
安田恵はしばらく黙って彼を見た。人を値踏みするように、警戒するように。
悠希は誤解されたくなくて、真っすぐ言った。
「君はすごい。俺もいつか本気で勝負したい。そのために連絡先がほしい。変な意味はない」
少しの沈黙のあと、安田恵は小さく「うん」とだけ返し、ポケットからスマホを取り出した。
細く、小さな指。
一瞬、こんな手で本当にハンドルを握るのか――そんな錯覚がよぎる。
彼女はQRコードを表示し、無言で差し出した。
悠希が読み取り、申請を送る。承認が返ってきたのを見て、ようやく息をついた。
「普段、いつ時間がある?」
安田恵は背を向け、バッグのファスナーを閉めながら、そっけなく言った。
「決まってない」
それきり、背負ったバッグとともに去っていく。
追いかけようとした悠希は、別の人間に呼び止められ、足を止めた。
――それが最後だった。
それ以来、安田恵は五年間、レース界から姿を消した。
LIMEでは繋がっているのに、何通送っても返事がない。
あのときの後悔を埋めたいのか、それとも別の理由なのか。
自分でもはっきりしない。
ただ、風間悠希はもう一度だけ――安田恵に会いたかった。
