第8章 実の母親に薬を盛られる

水原美月はすでに通話を切っていて、顔色はひどく悪かった。

安田恵のことなど、彼女は知らない。会ったことすら一度もない。

そう思うと、自然と視線が風間悠希へ落ちる。美月は探るように、慎重に口を開いた。

「悠希兄……安田先生と、何か揉めたことあるの?」

さきほどサーキットのオーナーが伝えてきた言葉は、自分だけを罵ったものではなかった。美月はそれを忘れていない。

風間悠希は答えない。ポケットからスマホを取り出し、安田恵のLIMEを開いて通話をかけた。

一回目。ツー……と鳴る前に切られる。

二回目。同じ。

三回目。画面に表示されたのは、冷たい文言だった。

『相手はあなたを友だちに追加していません』

――ブロックされた。

風間悠希の表情が沈む。スマホを握る指に、じわりと力がこもった。

だからこそ、本人がいちばん知りたい。

自分はいったい、どこで彼女の地雷を踏んだのか。

そのころ、別の場所。

七海は小林玲奈と食事を終えると、そのまま別れた。風間悠希のところへは戻らず、以前自分が借りていた部屋へ向かう。

玄関で暗証番号を入力し、ドアに手をかけた、その瞬間。

背後でエレベーターがチン、と鳴った。

反射的に振り向く。

エレベーターから出てきたのは、品のある中年の女性だった。整った眉目が、七海とよく似ている。八分は同じだ。関係を疑う余地がない。

「……お母さん?」

水原母は、思いがけず早く出くわしたことに一瞬だけ固まった。だがすぐに瞳の揺れを押し隠し、微笑みを作って七海の前へ歩み寄る。

「電話に出ないから、ここなら会えるかと思ってね。運がよかったわ。本当に帰ってきてた」

七海は静かに言った。

「マナーモードにしてただけ。気づかなかったの。……それで、用件は?」

正直に言えば、母に対する感情は血のつながり以上ではない。

七海が戻ってきたその日からずっと、失われていた実の娘として愛された覚えはなかった。

七海は知っている。

水原母が本当に可愛がっているのは水原美月だ。

だからこそ、同じ血を引いているはずなのに――水原家の「本当のお嬢様」は美月だと周囲は信じ、七海のほうが養子だと噂される。

水原母は七海の目にある距離を読み取り、ふっと息をつく。諭すように、ゆっくりと言った。

「七海、少しは私の立場も考えて。妹と取り合うのはやめなさい。悠希を……美月に返してあげて」

その言葉が耳に落ちた瞬間、七海は自嘲するように笑った。

「……何て言ったの?」

水原母は七海の顔色に気づかないまま、言葉を重ねる。

「あなたは田舎へ戻って。みんな、元の生活に戻ればいいの」

「そのほうが、あなたにとっても私たちにとっても幸せよ」

七海の手がドアノブを強く握り込む。次の瞬間――

バンッ!

玄関の扉を叩きつける音が、廊下に響き渡った。

「……誰の娘なの、私」

積もりに積もった疑問が、堰を切ったように溢れ出す。

「それとも最初から嘘? あなた、私の母親じゃないでしょ」

「母親なら、こんなこと言えるわけない」

「いいよ。元に戻すんでしょ。じゃあ教えて」

「私の本当の母親はどこ? もう死んでるの?」

水原母の表情が険しくなった。何か言いかけた、その口を七海が手で制する。

「もういい」

「あなたの夢、叶えてあげる」

「今日から私たちは赤の他人」

「だから――他人が私の世界に入ってこないで。二度と連絡しないで」

吐き捨てるように言い切り、七海が扉を開けて部屋に入ろうとした、そのとき。

背後で、水原母が呟くように言った。

「七海……ごめんね。これは、あなたが悪いのよ」

次の瞬間。

首筋に、ずしりと重い衝撃。

視界が暗く沈む直前に見えたのは、水原母の凍った顔だった。

どれほど時間が経ったのか。

七海が意識を取り戻すと、目に飛び込んできたのは刺すような白だった。

起き上がろうとした瞬間、手首の拘束が動きを止める。

鎖――手枷。

息を呑む。

親の手で殴られ、気絶させられ、見知らぬ場所へ捨てられた。理解が追いつかない現実が、脳内で形を持ち始める。

扉が開き、水原母がカップを手に入ってくる。ベッド脇まで来て腰を下ろした。

近づくにつれて、カップの中身が見える。黒々としたスープ。

背骨を冷たいものが這った。

七海は激しく身をよじる。

「何するの! 放して!」

水原母は困ったように首を振るだけだった。七海の鼻をつまみ、無理やり口を開かせ、薬を流し込む。

吐き出そうとしても間に合わない。苦い液体が喉を焼き、むせ返って咳が止まらなくなる。

水原母はカップをナイトテーブルに置くと立ち上がり、七海を見下ろした。

「恨まないで。仕方ないのよ」

「ここで大人しく待ってなさい。新しい旦那さんが来るから」

言い残し、踵を返す。

直後、鍵のかかる音が耳を刺した。

「全部、元に戻すって言ったでしょ!」

「風間悠希から離れる! もう二度とあなたたちの前に出ない!」

「だから放して……!」

咳で声が掠れても、返事はない。

――本気だ。

七海は歯を食いしばり、手枷を見る。太くはない。

手首を強引に細くしながら引き抜くようにして、皮膚が擦り剥けそうになるほど耐える。やがて、ようやく外れた。

息を整える間もなく、足枷へ手を伸ばしたとき。

ガチャリ――

ドアの鍵が回る音。

七海がベッドから飛び降りた瞬間、入ってきた中年男と目が合った。

男は彼女が逃げるのを見て、声を張り上げる。

正面突破は無理。

七海は腹を括り、窓へ走った。

そのまま二階から飛び降りる。

着地の衝撃で足首がぐきりと捻れる。だが止まれない。命を奪われるかもしれない恐怖が、身体を無理やり動かす。

視界の端に、廃車同然の車があった。ここがどこか考える余裕もない。七海は運転席に滑り込み、アクセルを踏み抜いた。

体の内側が燃えるように熱い。

――薬だ。

水原母は自分に薬を飲ませ、見知らぬ男のベッドへ送り込むつもりだった。

七海は最寄りの病院へ向かおうとした。だが薬の勢いが強すぎる。路肩に車を停め、ふらつきながら降りる。

川辺へ行くべきだと頭では分かっているのに――

気づけば、車を停めたのは風間悠希の駐車場だった。

もう迷っている暇はない。

七海はサーキットへ駆け込み、二階の風間悠希のオフィスへ向かう。

扉を開けると、風間悠希は机に向かって座っていた。

前のチャプター
次のチャプター