第二章
別荘に戻ったとき、私は恐怖で震えが止まらず、そのままソファに倒れ込んでしまったようだ。
再び目を開けると、微かな果物の香りが鼻をくすぐった。
「ゆる子、目が覚めたか」
父である和沢偉は、ベッドサイドで新聞を読んでいた。私が目覚めたのに気づくと、慈愛に満ちた表情で老眼鏡を外す。
「不注意だぞ。山田さんが、急に倒れたと言うから心配したんだ。つわりが酷いのか?」
「ほら、果物を食べるといい」
竹安言がフルーツの盛り合わせを持って近づいてくる。その顔には、私が見慣れた、あの甘やかすような笑顔が張り付いていた。
彼は綺麗にカットされた林檎を爪楊枝で刺し、私の口元へ運ぶ。
「起きたばかりなんだから、無理に動かないで。お腹の子が悪さをして、ママをいじめたのかな?」
彼はすぐさま、怒ったふりをして私のお腹を撫でた。
「パパはね、ママのことが一番大好きなんだ。お前は二番目なんだから、ママをいじめちゃ駄目だぞ。分かったか?」
暖かなオレンジ色の照明、心配してくれる父、優しい夫。
あまりにも温かい光景。その温もりに、私はある種の錯覚を覚えそうになる。
あの会員制クラブで目撃した光景は、マタニティブルーが見せた悪夢だったのではないか、と。
だが、嘘であるはずがない。
竹安言は私と結婚するために、土砂降りの雨の中、一晩中跪き続けたのだ。父だって私のために、十数年も再婚せずにいてくれた。
私は林檎を口に含み、目頭を熱くした。
「ちょっと手洗いに行ってくるよ」
竹安言は布団を掛け直し、優しく額にキスをしてから浴室へと消えた。
やはり、私の考えすぎだったのかもしれない。
そう思って目を閉じようとした瞬間――完全に閉まりきっていない浴室のドアから、シャワーの音に混じって、極限まで声を落とした竹安言の電話が漏れ聞こえてきた。
「……ウェディングドレスは当然、最高級のものにするよ。あのフランス製レースのやつが似合う……大丈夫、あいつはさっき気絶したし、今は泥のように眠ってる……ああ、いい子だ。僕も会いたいよ」
その瞬間、口の中の林檎がまるで蝋のように感じられ、吐き気を催した。
夢じゃない。
悪夢ですらない。これは、私を切り刻む生々しい現実だ。
私は手のひらに爪を深く食い込ませ、その激痛で意識を保った。
その時、父が腕時計を確認して立ち上がった。
「ゆる子、会社で緊急会議が入ってしまってな。父さんが行って処理してこなければならない。ゆっくり休むんだぞ」
「こんなに遅いのに、行くの?」
私は震えを必死に抑え、掠れた声で尋ねた。
「仕方ないさ。将来、これらはすべてお前のものになるんだ。父さんとしても、お前に盤石な基盤を残してやりたいからな」
父はため息をつき、家族のために身を粉にする疲れた父親を演じてみせた。
父が出て行くとすぐに、私は枕元のタブレットを掴んだ。
別荘エリアの至る所に監視カメラが設置されているが、これまで一度も見たことがなかったのだ。
父の黒いマイバッハがガレージを出ていく。会社の方角へは向かわず、角を曲がって、我が家から五百メートルもしない別の別荘へと入っていった。
玄関では、紀ノ川蘭が彼を出迎えていた。
なるほど。いわゆる「残業」も、「私に良い基盤を残す」という言葉も、すべては愛人と隠し子の家に行くための口実だったわけだ。
画面の中で紀ノ川蘭の腰を抱く父の姿を見て、胃の中身が逆流しそうになった。
「どうしたんだい?」
浴室から戻ってきた竹安言からはボディソープの清涼な香りがしたが、その奥にある吐き気を催すほどの偽善臭は隠しきれていない。
彼はベッドサイドに座り、私のお腹に触れようとした。
「赤ちゃんの心音が聞きたいな」
その時、彼のスマホが光った。
彼は愛おしげに私を見つめるふりをしながら、片手で素早くブラインドタッチで返信を打っている。顔には笑みを浮かべたままだ。
画面は見えない。だが相手が和沢雨子であることは分かっている。
私とお腹の子の話をしながら、別の女と愛を囁き合っているのだ。
強烈な生理的嫌悪感が理性の堤防を決壊させた。私は彼を突き飛ばし、ベッドの端で激しく嘔吐した。
「ゆる子!」
竹安言は驚き、私の背中をさすろうと手を伸ばしてくる。
その手が背中に触れた瞬間、まるで毒蛇に巻きつかれたかのように全身の毛が逆立った。
乱れた髪の隙間から、彼に瞳の奥に一瞬浮かんだ嫌悪と苛立ちが見えた。すぐに焦燥の仮面にすり替えられたが、見逃しはしない。
「なんて酷い吐き方だ……山田さんを呼んでくる」
「いいの」
私はティッシュで口元を拭い、顔を上げた。その瞳はすでに、死のように静寂で冴え渡っていた。
「『菓匠さくら』の和菓子が食べたいの。買ってきてくれないかしら?」
一番近い『菓匠さくら』でも十キロは離れている。往復で最低でも一時間はかかる距離だ。
竹安言は一瞬きょとんとしたが、すぐに瞳の奥に喜びの色が走った。
喜ぶのも無理はない。それだけの時間があれば、家を出て五百メートル先の、紀ノ川蘭と和沢雨子の家に行けるのだから。
ついでに、私の父とも会える。
「分かった。君が食べたいなら、どんなに遠くても買ってくるよ」
彼は上着を手に取り、情愛深い夫を演じきって、足早に出て行った。
ようやく部屋に私一人だけになった。
深く息を吸い込み、震える手で父に電話をかける。
「パパ……」
私は泣き声混じりの、甘えた声を出した。甘やかされて育った世間知らずの娘そのもののように。
「お腹がすごく痛いの、怖くて……。竹安言は出かけちゃったし、戻ってきて傍にいてくれない?」
電話の向こうから和沢雨子の甘ったるい笑い声が聞こえ、すぐに受話口を塞ぐノイズにかき消された。
一拍置いて、苛立ちを隠して心配を装う父の声が響く。
「どうしたんだ? 分かった、分かったよ。父さんがすぐに戻るから」
十五分後、父は冷気を纏って部屋に入ってきた。その眉間には、楽しみを中断された苛立ちが刻まれている。
「どうした、ゆる子? どこか具合が悪いのか?」
「パパ、さっき悪夢を見たの。私の持ち株が全部なくなっちゃう夢……」
私は目を赤くして、枕の下から用意しておいた書類を取り出した。
「これ、この前山田弁護士が持ってきた株式管理の補足合意書なんだけど、パパが管理しやすいようにって。サインして。パパがサインしてくれないと安心できないの」
父は早く戻りたくてたまらないらしく、内容を確認する気などさらさらないようだった。
彼にとって私は、金を使うことと恋愛にしか能のない馬鹿な娘なのだ。ここ数年、私の資産はすべて彼が管理しており、サインなどただの形式的な手続きに過ぎない。
「お前は本当に、思いつきで動く子だな」
彼は豪快にペンを走らせ、書類の末尾に署名した。二ページ目を開くことさえしなかった。
彼は知らない。それが管理委託契約書などではないことを。
それは『子名義の全資産及び管理権の放棄確認書』だ。条項には致命的な特約が隠されている。「署名と同時に、私名義のすべての信託基金に対する監督権を即時終了する」というものだ。
「よし、父さんはまだ用事があるから、早く寝なさい」
父はペンを放り出し、再び出て行った。
ドアが閉まる音が響くと同時に、私は顔に残った涙の跡を無造作に拭い去った。
署名された契約書を手に取る。
「もしもし、佐藤弁護士? 私です」
窓の外に広がる漆黒の闇を見つめながら、私は告げた。
「直ちに株式管理委託の終了手続きを開始してください。それから財務部に通達を。明日から順次、和沢グループおよび竹安言の会社との進行中の取引をすべて打ち切ってください」
