第三章

「和沢お嬢様、手続きはすでに開始いたしました」

 佐藤弁護士は真剣な面持ちで告げた。

「この書類が発効すれば、和沢グループの株式六割は、完全に貴女様個人の名義に戻ります。亡きお母上のご手配は完璧でした。あの紀ノ川蘭が旦那様と再婚しようとも、一銭たりとも渡ることはございません」

 私は思わず目頭を熱くした。

 お母さんは死ぬ間際まで、私のことを案じてくれていたのに。私はなんて愚かだったんだろう。奴らの意のままに操られ、危うく自分を滅ぼすところだった。

「お母さん……生きていてくれたらよかったのに」

「私に愛をくれたのは、お母さんだけだった」

「佐藤先生、私って本当に馬鹿でしょう?」

 私は腹部をそっと撫でた。そこには小さな命が宿り、確かに脈打っている。

「豺狼のような連中を家族だと思い込んで、私を命懸けで愛してくれた唯一の人は、あいつらに追い詰められて病室で息を引き取ったというのに」

「お嬢様、貴女様はただ、温かい家庭を渇望しておられただけです」

 佐藤弁護士は小さく溜息をついた。

「して、お腹のお子は……」

「産みます」

 顔を上げると、涙はすでに乾いていた。

「私の子供です。私とお母さんの血が流れている。父親が誰かなど、些末なことですから」

 階下から、エンジンの轟音が響いてきた。

 竹安言が帰ってきたのだ。

 バンッ、と勢いよく扉が開かれた瞬間、冷気と共に甘ったるいマンゴーの香りが鼻をつく。

「ゆる子! 見てくれ、何を買ってきたと思う!」

 竹安言は肩で息をしながら駆け込んでくる。額には玉のような汗が浮かんでいた。彼はまるで宝物を献上するかのように、様々な種類のスイーツを捧げ持っている。

 『菓匠 さくら』といえば、全港市で最も入手困難な洋菓子店だ。デリバリーすら対応していない。

「君の好きなものも、そうじゃないものも全部買ってきたよ。食べてみて」

 彼はベッドの脇に片膝をつき、慎重に布丁(プリン)を匙ですくい、私の口元へ運ぶ。

 その情熱的な目は、溢れんばかりの寵愛で満たされていた。

 もし、ほんの数時間前に彼がクラブで和沢雨子を抱き寄せ、聞くに堪えない嬌声を上げている現場を目撃していなければ、私はまたこの甘い罠に溺れていただろう。

「竹安言」

 私は口を開こうとはせず、静かに彼を見つめた。

「私に何か、言っておきたいことはないの?」

 竹安言の手がわずかに止まり、匙が揺れる。

「どうしたんだい?」

 彼は顔色一つ変えず、空いた手で私の頬を撫でてみせた。

「さっき怖い夢でも見て、驚いたのかな? 怖くないよ、俺がついている」

「夢を見たの……」

 私は彼の瞳孔を凝視し、一欠片の罪悪感でも見つけようとした。

「あなたが私を騙している夢。酷い嘘をつかれて、私は苦しみながらあなたに問うの。どうして私を騙したのって」

 空気が一瞬にして凍りつく。

 竹安言の瞳の奥に狼狽の色が走ったが、それは錯覚かと思うほど一瞬のことだった。

「馬鹿だなあ、やっぱり妊娠中で情緒が不安定なんだね」

 彼はスイーツを置くと、私を力一杯抱きしめた。身体が砕けそうなほどの強さで。

「君と結婚するために、俺は和沢家の門前で一晩中土下座したんだ。君の笑顔のためなら、命だって惜しくない。ゆる子、この世界で俺以上に君を愛している人間なんていないよ」

 なんて完璧な台詞回し。

 なんて真に迫った演技。

 この目で真実を見ていなければ、また騙されていたに違いない。

 その時、私のスマートフォンが震えた。

 画面が光り、非通知の動画メッセージがポップアップする。

 竹安言の肩越しに、そっと画面を覗き見る。

 それは竹安言と和沢雨子が親密に戯れる動画集だった。傍目にも衝撃的なほど甘い写真の数々。

 私は返信せず、黙って画面を消した。

「竹安言」

 これが最後の問いかけだ。

「私に隠していることや、騙していることはない? 今言ってくれれば、私は何でも……」

 心に深く突き刺さった棘を抜くのは、あまりにも痛みを伴うから。

 かつて竹安言が私を救ってくれたことに免じて、最後にもう一度だけ、チャンスを与えよう。

 竹安言は困ったように首を振った。

「やれやれ、ゆる子。君が俺に何をしてほしいか分かってるよ」

 突然、彼が身を乗り出して私の額にキスを落とす。

「不安なんだね? キスしてほしいのかな? 愛しい人(ベイビー)、心配しないで。子供のことは俺がちゃんと守るから」

 ついに涙が零れ落ちた。

 竹安言は優しく囁く。

「どうしたの、感動して泣いちゃった? 夫として当然のことだよ」

「誓うよ。俺は良き夫、そして良き父親になるために努力する」

 その時、また携帯が鳴った。竹安言の顔色が変わる。上辺だけの言葉で私を宥めながら、その視線はずっと別の場所を彷徨っていた。

「もうお休み。俺はずっと側にいるから」

 私は寝たふりをした。案の定、彼は逃げるように部屋を出て行った。

 その様子を記憶に刻みつけ、私は動画ファイルの続きを開く。

 乱れたベッド、広い背中と華奢な腰、そして液体の付着した狐の尻尾。

 和沢雨子の喘ぎ声が聞こえるボイスメッセージすらあった。

『お姉ちゃん、私ってすごいでしょ? お姉ちゃんは妊娠しててお義兄さんの相手ができないから、私が代わりに世話してあげてるの』

『お姉ちゃん、お義兄さんがね、私との将来の子供の名前を考えてくれるって。お姉ちゃんはどんな名前がいい? 先に選んでいいよ?』

 私はそれには返信しなかった。

 代わりに、別の番号へメッセージを送る。

【貴方が、私の子の戸籍上の父親になることを認めます。】

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