第1章 彼女の夫には婚約者ができた
今日は名取賢次の上場祝いの席だった。清水若菜は朝から個室を走り回り、彼のためにちょっとしたサプライズまで用意していた。
傍らで秘書の小林唯が、しみじみと言う。
「若菜さん、名取社長の秘書を三年も務めて、ずっと真面目に頑張ってきたじゃないですか。会社も上場したんですし……そろそろ、お二人のことも公にしていい頃じゃないですか?」
清水若菜は目を伏せ、何もない薬指へ視線を落とした。そこには本来、ダイヤの指輪があるはずだった。けれど今朝、わざと外してきたのだ。
三年前。名取賢次の会社は資金繰りが尽きかけ、倒産寸前だった。若菜は海外留学の機会を投げ捨て、なりふり構わず彼のそばに残った。秘書となって毎日深夜まで働き、胃から出血するほど身体を削っても、彼を窮地から救うために踏ん張り続けた。
その後、名取賢次は彼女にプロポーズした。若菜はうれしさのあまり、涙が止まらなかった。
彼の仕事に差し障りが出ないよう、二人は結婚を伏せた。式は挙げず、あるのは簡素な婚姻届の証明と、ひとつのダイヤの指輪だけ。それでも清水若菜は十分に幸せだった。
とはいえ、会社の人間も鈍くはない。二人の間にただならぬものがあると、とうに気づいている。
会社が上場した今こそ、関係を公表する時だ。若菜も秘書を辞め、名取夫人として彼を支えていける。
「若菜さん?」小林唯がそっと肩を押す。「何、考えてるんです?」
清水若菜ははっとして、淡く笑った。
「なんでもない。飲み物のリスト、確認してくるね。名取社長、もうすぐ着くはずだから」
立ち上がろうとした、その時だった。
個室の扉が不意に開いた。
入ってきたのは名取賢次。濃いグレーのスーツを隙なく着こなし、長身で、立ち姿はすっと伸びている。目鼻立ちは鋭く、気配はひやりと冷たい。上流階級の娘たちが理想の結婚相手として思い描く、そのもののような男だった。
清水若菜は口元をほころばせ、迎えに出ようとした。
だが――その背後に、女の姿があった。
白いワンピースをまとい、化粧は完璧。柔らかく上品な微笑みを浮かべた女。
その女は、名取賢次の腕に自然にしがみついていた。二人はひどく親しげに見えた。
清水若菜の足が止まる。個室の空気も一瞬で静まり返った。
同僚たちが顔を見合わせ、ひそひそと尋ねる。
「名取社長……その方は……?」
名取賢次は一度だけ清水若菜へ視線を向け、すぐに引いた。淡々と口を開く。
「正式に紹介する。こちらは俺の婚約者、温井有紗だ」
清水若菜はその場で固まった。
次の瞬間、耳の奥でぶうんと鈍い音が鳴り、頭の中が真っ白になる。
温井有紗は落ち着いた所作で皆に挨拶し、場をさらりとまとめていく。若菜の身体は小刻みに震え、指先からすっと熱が引いていった。
温井有紗――名取賢次の初恋の相手。
三年前、彼の会社が資金ショートを起こして倒れかけた、まさにその時。彼女は別れを告げ、そのまま海外へ飛んだ。
サプライズのはずだった。なのに返ってきたのは悪夢だった。
清水若菜が積み重ねてきた三年は、結局、他の女のための土台でしかなかったのだ。
「名取社長、隠すのうまいですねえ!」
誰かが囃す。
「いつの間に、こんな綺麗な婚約者がいたんですか?」
名取賢次は答えなかった。ただ少しだけ顔を傾け、隣の温井有紗を見る。
その眼差しには、清水若菜が一度も向けられたことのない柔らかさがあった。
温井有紗は唇を軽く結び、やさしく笑う。
「困らせないでください。私たちも、決まったばかりなんです」
清水若菜は指先に力を込めた。手にしていたドリンク表が、くしゃりと音を立てて歪む。
「若菜さん、大丈夫ですか……?」小林唯が気遣わしげに覗き込む。
「大丈夫」清水若菜は首を振り、声の震えを押し殺した。
深く息を吸い、表情を整える。そして名取賢次のほうへ歩き出した、その時――温井有紗が振り向いた。若菜を見つけると、笑みを浮かべて近づいてくる。
「あなたが清水秘書ね? 賢次からよく聞いてたわ。この三年、本当にお疲れさま。会社をここまできちんと回してくれて」
清水若菜は口元だけで笑った。
「温井さん、もったいないお言葉です。仕事ですから」
「仕事だなんて」温井有紗はまた名取賢次の腕に手を回す。「賢次、清水秘書は昇給させないと。こんなに優秀な秘書、誰かに取られたら困るでしょう?」
名取賢次は清水若菜をじっと見て、短く頷いた。
「……ああ」
清水若菜はその視線を避けた。俯いた拍子に、どうしても目の奥が熱くなる。
「料理の準備、見てきます」
適当な口実だけを残し、彼女は背を向けた。
扉の近くまで来たところで、背後から温井有紗の声が届く。
「賢次、清水秘書って綺麗だし仕事もできるのに。どうしてあの時、追わなかったの?」
名取賢次が何と答えたのか、清水若菜は聞かなかった。――聞けなかった。
上場祝いの宴そのものは、滞りなく進んだ。
温井有紗は終始、彼の隣に立っていた。品のいい笑みを浮かべたまま、まるで最初からその席の「主役」であるかのように。
清水若菜は隅の席でシャンパンを手にし、並んで立つ二人を見つめた。絵になるほどに似合っている。胸の奥が、じわじわと冷えていく。
ふいに、温井有紗がグラスを持ってこちらへ歩いてきた。
「清水秘書」
彼女は向かいに腰を下ろし、にこやかに覗き込む。
「どうして一人でこんなところにいるの? みんなと一緒にお祝いしないの?」
清水若菜は目を上げた。
「賑やかなの、あまり得意じゃないんです」
「そうなの」温井有紗は一口だけ飲み、何気ない顔で続ける。
「清水秘書って、賢次のそばに三年いたんでしょう? きっと彼のこと、よく知ってるわよね?」
清水若菜は黙ったまま。
温井有紗は笑みを深めた。
「じゃあ、私のことも聞いてるはずよね? 私たち、大学の頃から付き合ってたの。彼、言ってたわ。ずっと私を忘れられなかったって」
その目には、わずかな挑発が滲んでいた。
清水若菜は眉を寄せ、それでもどこか可笑しくなった。
――縄張りの宣言でもしに来たのだろうか。
「……聞いていません」
淡々と答える。
「名取社長は、私に私事を話しませんから」
温井有紗はますます楽しそうに笑った。
「じゃあ今度、時間がある時に一緒に食事でもしましょう。ゆっくりお話ししたいわ」
「ええ」清水若菜は立ち上がる。「温井さん、ごゆっくり。私はデザートの確認がありますので」
背を向けてその場を離れた。廊下の突き当たりまで行ってようやく立ち止まり、壁に背中を預ける。
全身の力がするすると抜けた。
胸の奥に何かが詰まっているみたいで、息ができない。苦しい。
宴が終わる前に、清水若菜は先に帰った。
家に戻るとソファへ沈み込み、そのまま闇の中で身じろぎひとつしない。
どれくらい時間が経ったのか。
かちゃり、と鍵の回る音がして、次いでリビングがぱっと明るく染まった。
玄関に立っていたのは名取賢次だった。ソファに座る彼女を見て、一瞬だけ動きを止め、眉をひそめる。
「なんで電気をつけない」
清水若菜は顔を上げ、赤く腫れた目で彼を見た。
「あなたに婚約者がいるなんて、どうして私は知らなかったの?」
名取賢次の動きがぴたりと止まる。
しばしの沈黙の後、掠れた声が落ちた。
「若菜……離婚しよう」
清水若菜は息を呑んだ。
「お前が俺に嫁いだのは、もともと祖父の願いを叶えるためだっただろ」
名取賢次の声は低く沈んでいる。
「今は祖父の容体も落ち着いた。お前が無理して俺のそばにいる必要はない」
