第2章 君の心の中にも、ほかの誰かがいるんじゃないの?

清水若菜の祖父と、名取賢次の祖父は旧知の間柄だった。

二年前、祖父が重い病に倒れた時、いちばんの願いは若菜と賢次が夫婦になること――それだけだった。

清水若菜は、ふいに笑いそうになった。

祖父の病室で、名取賢次が彼女の手を握り、嫁いでくれるかと尋ねたあの時のことを思い出す。

頷いた瞬間、胸が壊れそうなくらい高鳴った。本当に、彼が好きだったから。

けれど彼にとってそれは、祖父の願いを叶えるための結婚でしかなかった。

「……温井さんが戻ってきたから?」

若菜が問うと、賢次は何も答えない。

その沈黙が、なにより雄弁だった。

若菜は立ち上がり、背を向けたまま、かすかな声で言う。

「明日、出ていくね」

そのまま寝室へ向かおうとした時、不意に背後から賢次の声が飛んだ。

「そんなに傷ついたふりをしなくていい」

若菜の足が止まる。

「お前だって、ずっと心の中に別の男がいるんだろ」

若菜は振り返り、戸惑いをにじませた。

「……どういう意味?」

賢次は顔を上げる。眼差しは沈んでいて、複雑だった。

「お前の部屋に、ずっと隠してあるだろ。あいつのスケッチ」

若菜は唇を開いた。

けれど、声にならない。

それだけ言うと、賢次は踵を返し、そのまま二階へ上がっていった。

若菜はその場に立ち尽くし、階段の向こうへ消えていく背中をただ見送った。

やがて自室へ戻り、クローゼットの最下段にある引き出しを開ける。古い品の山をかき分け、ひとつの封筒を引っぱり出した。

中に入っていたのは、黄ばんだクロッキー用紙が一枚。

そこに描かれていたのは、ひとりの男の背中だった。

逆光の夕陽。

すらりとした輪郭。

窓辺に立つ、まっすぐな肩の線。

六年前のことだ。

祖父の病室で、若菜はその人を見かけた。見舞いに来ていて、窓際で電話をしていた。

彼女は扉の陰に隠れ、息を潜めて、長いことその背中を見つめていた。

家に帰ってから、記憶だけを頼りに描いたのがこの一枚だった。

若菜はその見慣れた背中を見つめたまま、とうとう涙をこぼした。

翌朝、目が覚めた時には、賢次はもういなかった。

リビングのダイニングテーブルにはキャッシュカードが一枚。

その下に、メモが挟まっている。――暗証番号は君の誕生日。

若菜はそのメモを、しばらく無言で見つめていた。

そしてキャッシュカードには手を伸ばさず、そのままテーブルに残した。

荷物をまとめると、若菜は会社へ向かった。

辞表は昨夜のうちに作ってある。印刷もして、署名も済ませていた。

少し考えた末、鞄からもう一通の書類を取り出し、辞表と一緒に重ねる。

そのまま名取賢次の執務室の前まで来たところで、足がぴたりと止まった。

温井有紗が、賢次の目の前に立っていた。

背伸びをして、彼のネクタイを整えている。

距離は近く、仕草はあまりにも親密だった。

ドアの音に気づき、有紗が振り返る。若菜を見つけても、笑みは崩さない。

「清水秘書、いらしたの?」

賢次の視線が若菜の顔でわずかに止まる。

次の瞬間、彼はほんの少し身体を引き、有紗と距離を取った。

有紗の笑みが、一瞬だけ強張る。

「辞表を出しに来ました」

若菜は歩み寄り、書類を机の上に置いた。

賢次はそれに目を落とし、少しためらうように言う。

「……そこまで急がなくてもいい」

「早く片づけたほうがいいこともありますから」

それだけ言って、若菜は俯いたまま執務室を後にした。

賢次はしばらくその背中を見送ってから、机上の書類に手を伸ばす。

開いた途端、辞表のあいだに挟まれた離婚協議書が目に入り、指先がぴたりと止まった。

若菜が去っていった方を見ながら、有紗がぽつりとこぼす。

「もったいないわね。会社にとって、頼れる人がひとり減るなんて」

そう言って横を見ると、賢次の様子がおかしい。

有紗は首を傾げ、気遣うように呼びかけた。

「賢次?」

賢次ははっとしたように我に返り、すぐ書類を閉じた。

けれどその目の奥は、沈んだままだった。

「今日は用事がある。昼は一緒に食べられない」

どこか上の空の声だった。

有紗は一瞬、表情をなくした。

口元の笑みが、じわじわと固まっていく。

ドアのところまで歩いてから振り返る。

けれど賢次は手元の辞表ばかり見つめていて、一度も彼女を見ようとしなかった。

有紗は悔しげに唇を噛み、踵を返して部屋を出ていった。

若菜はオフィスビルを出ると、花屋でマーガレットを一束買い、その足で病院へ向かった。

賢次との結婚が終わろうとしていても、祖父にはずっと世話になった。離婚するにしても、きちんと挨拶はしておきたかった。

病室では、名取誠彦が新聞を読んでいた。

若菜の姿を見るなり顔をほころばせ、手を引いて、しばらく楽しそうに世間話を続ける。

あの頃、誠彦は重い病に伏し、多くの医師が打つ手を失っていた。

若菜は大学で身につけた医療の知識を頼りに、毎日根気よくマッサージを続けた。そうして奇跡のように、誠彦は少しずつ快方へ向かったのだ。

誠彦は若菜の手を握ったまま、ベッド脇に座らせる。

それから彼女をまじまじと見つめ、穏やかに口を開いた。

「若菜や、よう世話してくれたなあ。お前さんたち、子どものことは考えとらんのか?」

若菜は一瞬、言葉を失った。

本当は、賢次と離婚するつもりだと伝えるつもりだった。けれど、その言葉が喉の奥で止まる。

誠彦は彼女の曇った顔を見て、やさしく笑った。

「気にせんでええ。若いもんには若いもんの考えがある。わしの言葉なんぞ、重く受け取らんでいい」

誠彦が知らないはずがない。

若菜が当時、自分を安心させるために結婚を受け入れたことを。

結婚してからも、若菜はほとんど毎日のように見舞いに来た。

実の孫よりよほど献身的だった彼女に、これ以上負担をかけたいわけがなかった。

若菜は胸の奥がつんと痛み、心配をかけまいと立ち上がる。

水でも注ごうとした、その時だった。

コップを手に振り向いた瞬間、誠彦が胸を押さえ、みるみる顔色を失っていくのが見えた。

「おじいさま!」

若菜は駆け寄る。

呼吸は荒く、脈は弱い。唇まで紫がかっていた。

まずい。急性心不全――。

若菜は即座に状況を見切った。

誠彦の襟元を緩め、上体を半ば起こした姿勢に整え、そのままナースコールを押す。

ほどなくして、医師と看護師が駆け込んできた。

若菜は脇で様子を見守っていたが、誠彦の顔色がどんどん悪くなっていくのを見て、さらに医師が用意した投薬量に気づき、眉を強くひそめる。

「待ってください」

思わず声が出た。

表情は真剣そのものだった。

「その量は多すぎます。高齢ですし、腎機能への負担が大きいです。フロセミドは40mgで十分です」

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