第3章 祖父を救う
病室の空気が、ふっと静まり返った。
看護師たちが顔を見合わせる。主治医が顔を上げた。清水若菜のことは覚えている。よく見舞いに来る「家族」――それだけだ。彼女が医療知識を持っているとも、名取誠彦にマッサージをしていたとも、知らない。
「ご家族の方は、いったん外へ。ここで騒がれると困ります」
「でも先生、私も少し医学は……」清水若菜は必死に食い下がる。
主治医は上から下まで値踏みするように見て、眉間に皺を寄せた。
「医学? どこの科で働いてるんですか。医師免許、見せてください」
清水若菜は唇をきゅっと結ぶ。――免許は、ない。
主治医は鼻で笑った。
「ないなら口を出さないでください。救命の邪魔をして、万が一のことになったら責任取れるんですか?」
看護師が手際よく注射の準備を進めていく。
名取誠彦の呼吸は、みるみる弱くなっていく。
このまま60mgのフロセミドを入れれば命は繋げても、腎機能に大きな負担がかかる。八十を超えた身体には酷すぎる。
清水若菜は一歩踏み込み、もう一度止めた。
「待ってください、それは――」
「これ以上妨害するなら警備を呼びます!」主治医が語気を強める。
言い争いが平行線のまま硬直した、その時。
扉のほうから、落ち着いた低い声が響いた。
「彼女の言う通りにしなさい」
全員が振り向く。
銀髪に金縁眼鏡。背筋の伸びた老人が、静かに病室へ入ってきた。
清水若菜は、その姿を見た瞬間――息が止まった。
千野教授。かつての指導教員。
主治医は顔色を変え、慌てて駆け寄る。
「千野教授、ちょうどよかった! 急性左心不全で……投与しようとしているんですが、ご家族が妨害して」
千野教授はベッド脇へ進み、モニターの数値を一瞥した。眉がきゅっと寄る。
「私の言葉が分からないのか。40mgだ。フロセミド」
主治医は固まった。だが千野教授の立場に逆らえるはずもなく、唇を噛んで指示通りに薬剤を準備する。
十五分後。
名取誠彦の心拍は落ち着き、乱れていた呼吸も、少しずつ整っていった。
千野教授は満足げに清水若菜の肩をぽんと叩く。
「まあまあだ。全部忘れてはいなかったな」
医師と看護師の視線が、一斉に清水若菜へ集まる。
若く、整った顔立ちの女性が、なぜ千野教授とここまで近しいのか。千野教授は高名で、冷淡で、人を寄せつけない――助手すら置かないことで有名だ。
主治医が眉をひそめる。
「千野教授、この方は……?」
千野教授は清水若菜を見て、淡々と言った。
「私の学生だ」
ざわり、と空気が揺れた。
千野教授は弟子を取らない。天才と名のつく人材ですら門前払いにしてきた――そのはずなのに。
主治医は居心地悪そうに口をつぐみ、病室を出ていった。
人が引くと、清水若菜は肩を落とし、叱られる子どもみたいに目を伏せる。
「……先生」
「誰が先生だ」千野教授は不機嫌そうに言い捨てた。
「当時、私がどれだけ腹を立てたと思ってる。お前は私の一番の教え子だ。苦労して掴んだ研鑽の機会を投げ捨てて――挙げ句、ヒモみたいな男の秘書だと?」
清水若菜は何も言えなかった。
かつて彼女は首席で千野教授の最後の学生となり、期待を一身に受けていた。
それでも彼女は、医学の道を捨てた。名取賢次を愛してしまったから。
恋が、未来より大切だと思っていた。
今となっては、ひどく滑稽で、苦い。
その時、病室の入口から聞き覚えのある声がした。
「若菜? どうしてここにいる」
振り向けば、名取賢次が立っていた。複雑な表情で彼女を見ている。
千野教授は名取賢次を一瞥し、探るように目を細める。
「君は患者の家族か」
「……はい」
名取賢次は千野教授を知っている。医学界の泰斗。祖父のために巨額を積んで依頼しても、何度も断られた相手だ。
その千野教授が、清水若菜と並んでいる。理解が追いつかない。
「命の危険は脱した」千野教授は言い、清水若菜へ視線を投げる。
「若菜が素早く処置したおかげだ。判断も早かった」
名取賢次の目が、清水若菜に戻った。驚きが滲む。彼女が医療の知識を持つなど、知らなかった。
千野教授は腕時計を確かめる。
「これから学会だ。後で電話する」
そう言い残して、病室を出ていった。
廊下に二人きりになる。
名取賢次は重い目で清水若菜を見据えた。
「千野教授と知り合いなのか?」
清水若菜は、教え子だとは言いたくなかった。
「以前、父の診察をしていただいたことがあるの」
名取賢次は頷く。清水家の人脈なら不思議ではない――そう納得したらしい。
しばらく見つめたのち、低い声が落ちる。
「離婚するんだ。ここまでやる必要はない」
清水若菜は一瞬、息を止めた。
――誤解している。祖父に取り入って、離婚を翻させるためだと。
違う。
彼女はただ、名取誠彦が大切で、最後の挨拶をしたいだけだった。
この人は、私のことを何も知らない。
この結婚は最初から最後まで、私の独りよがりだった――そう思うと、胸が冷えた。
その時、病室の中からかすれた声がした。
「……若菜……」
名取誠彦が目を覚ましたのだ。震える手が伸びる。
清水若菜はすぐに駆け寄り、手を握る。
「おじい様、少し楽になりました?」
名取誠彦は支えられて起き上がり、彼女の手の甲を軽く叩いた。
「だいぶ楽になった。水を一杯、持ってきてくれ」
清水若菜は頷き、コップを手に病室を出た。
彼女が出た途端、名取誠彦は名取賢次を睨みつけた。
「クソガキ! さっき聞こえたぞ。若菜と離婚するつもりか!」
名取賢次は祖父を刺激したくなく、言葉を濁す。
「おじい様、今は安静に。俺と若菜のことは、俺たちで……」
「温井有紗が戻ってきたんだろうが!」名取誠彦は咳き込みながら怒鳴った。
名取家が潰れかけたあの時、真っ先に逃げた女。上流階級の笑いものにした元凶。
清水若菜がいなければ、今日の名取家などあり得ない。
「忘れてない」名取賢次は背中をさすりながら言った。目の奥に憂い。
「だからこそ、俺は若菜に自由を返す」
名取誠彦は息を整え、じっと孫を見た。
「若菜は、お前が思ってるような子じゃない」
孫から、清水若菜が「別の男」の素描を隠しているという話は聞いている。
だが彼女が、見栄えのいい相手にふらりと乗り換えるような女には思えない。そこには必ず誤解がある。
名取賢次は何も答えなかった。
ただ、表情だけが、さらに深く沈んでいく。
