第5章 彼は彼女のためにどうやって鬱憤を晴らすのか?

皆がいっせいに振り返る。そこにいたのは、看護師に身体を支えられながらも、名取誠彦が病身を押して病室から出てきた姿だった。

今にも倒れそうなほど弱っているのに、背筋だけはぴんと伸びている。鋭く冴えた眼差しが、その場の人間をひとりずつ冷たく薙いでいき――最後に、温井有紗の上で止まった。

その視線を受けた瞬間、温井有紗の胸がどくりと鳴る。反射的に目を逸らしたくなった。

だが次の瞬間、名取誠彦は威厳に満ちた声で言い放った。

「温井有紗、よう聞け。名取家はな、お前みたいな女を孫嫁として迎える気はさらさらない。そんな女、欲しいやつが勝手にもらっていけ。名取家には過ぎた縁だ!」

そのひと言で、態度ははっきり示された。

温井有紗の顔がさっと白くなる。たちまち目に涙を溜め、いかにも傷ついたような顔で名取誠彦を見上げた。

「おじい様、どうしてそんなことをおっしゃるんですか? 私は本気で賢次をお慕いしていますし、お見舞いだって心から来たんです。……清水秘書に何か吹き込まれたんじゃありませんか? あの人、わざと私たちの仲を裂こうとしてるんです」

言いながら、さりげなく空気を誘導していく。

「たしかに私は気に入られていないのかもしれません。でも、私だって何ひとつ悪いことなんてしていません。それなのに、どうしてこんなふうに……かわいそうな女の子をいじめるんですか……?」

その声を合図にしたように、カメラを担いだ記者たちがどっと詰め寄り、レンズがいっせいに清水若菜へ向いた。

「名取誠彦さんに近づいたのは、名取家での立場を手に入れるためですか?」

「さっき温井さんを叩いたのは、嫉妬からでしょうか?」

「あなたと名取社長はどういう関係なんです? 温井さんのおっしゃる通りなんですか?」

矢継ぎ早に浴びせられる問い。清水若菜は眉をきつく寄せたまま、ひと言も返さない。

それを見た名取誠彦はすぐに清水若菜の前へ出て、記者たちを怒鳴りつけた。

「勝手な憶測でものを言うな! 若菜はええ子や。わしが来てくれと頼んだんだ!」

「それより、記者まで連れて病院で騒ぎを起こし、病人をわざと怒らせるような真似をしたやつがおる。何を企んどるかくらい、見りゃわかるやろうが!」

互いに一歩も引かず、廊下はざわざわと騒然となる。

名取誠彦があそこまで露骨に清水若菜を庇う――その事実が、温井有紗の胸にどす黒い悔しさを燃え上がらせた。

名取賢次の腕の中からそっと身を引く。そして、止めに入るふりをして一歩前へ。

次の瞬間、誰にも気づかれぬように目つきを変え、名取誠彦を思いきり突き飛ばした。

もともと体力の落ちていた名取誠彦の身体が、ぐらりと大きく傾く。

「おじい様!」

清水若菜の顔色が変わった。考えるより先に駆け出し、名取誠彦の前へ身を投げ出す。

鈍い音が響く。

清水若菜の背中が、勢いよく冷たい扉の枠へ叩きつけられた。ずきん、と焼けるような痛みが一気に全身へ走り、思わず息が詰まる。

それでも彼女は名取誠彦をしっかり支え、倒れさせなかった。

その一部始終を、名取賢次は見ていた。

胸の奥がぎゅっと縮む。説明のつかない焦りが込み上げ、思わず足が前へ出かける。

――だが、その次の瞬間。

清水若菜がばっと顔を上げた。温井有紗を射抜く目は、凍てつく刃のように冷たい。

そして迷いなく手を振り上げ、もう一度、頬を打ち抜いた。

ぱんっ!

先ほどよりも重い、容赦のない一撃だった。

温井有紗は顔を横に弾かれ、頬を押さえたまま呆然と立ち尽くす。

「温井有紗、いつまでそんな芝居を続けるつもり?」

清水若菜の声は凍りつくほど冷え切っていた。

「昔、あなたがどうして去っていったのか――いちばんよく知ってるのは、あなた自身でしょう。苦しい事情があったって言うなら、言ってみなさいよ。その事情って、何?」

温井有紗の目が泳ぐ。唇がわなわなと震え、しどろもどろになる。

「わ、私は……あの時は、その……」

「言えないなら、そこで哀れっぽく振る舞うのはやめたら?」

清水若菜は鼻で笑った。

「言い訳が見つからないからって、おじい様にまで手を出すなんて。芝居を打つなら、せめて少しは稽古してからにして。見てるこっちが白けるわ」

「私が名取賢次を好きかどうかなんて、私自身の問題よ。誰にも関係ない。でもね、男ひとりのために、病気の老人を悪意で振り回すような真似だけは、私は絶対にしない」

その言葉で我に返った温井有紗は、くるりと向きを変え、名取賢次の胸へすがりついてわっと泣き出した。

「賢次……私、いったい何をしたっていうの? 二回も叩かれたのよ……!」

「ただの秘書のくせに、どうしてこんなこと……お願い、助けて……」

花が雨に濡れたような泣き顔。いかにも守ってやりたくなる弱々しさ。

その場にいた誰もが思った。今度こそ、名取賢次が清水若菜を庇うはずがない、と。

清水若菜自身でさえ、そう思っていた。

わずかに顎を上げ、静かな目で名取賢次を見つめる。

三年、愛した男。

三年、すべてを捧げた男。

その男が、自分の高嶺の花のためにどう動くのか――見届けてやる。

だが、名取賢次は何もしなかった。

ただ、沈んだ目で清水若菜を見つめているだけ。

一秒。

二秒。

三秒。

まるで時間そのものが止まってしまったかのようだった。

その視線を受けた途端、清水若菜の鼓動がほんの一瞬だけ乱れる。

――来ないの?

やり返さないの?

答えはすぐに出た。

名取賢次はゆっくりと視線を外し、温井有紗の肩をそっと抱く。低く落ちた声で告げた。

「先にここを出る。顔の手当てをするぞ」

温井有紗は一瞬、何を言われたのかわからないという顔になった。泣き声がぴたりと止まり、不満が露骨に浮かぶ。

欲しかったのは退場じゃない。清水若菜を跪かせて謝らせ、できることなら徹底的に叩き潰し、二度と顔を上げられなくすることだったのに。

「賢次、こんなの納得できない!」温井有紗は彼の腕にしがみついたまま、震える声で訴える。「私は本当にお見舞いに来ただけなの。悪いことなんて何もしてないのに、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの? ちゃんと説明してよ!」

名取賢次の顔がすっと冷える。

「先に行くぞ」

低いが、有無を言わせない声だった。

その底冷えする圧に、温井有紗の身体がびくりとこわばる。悔しさも恨みも腹の底で煮えたぎっているのに、もう反論はできなかった。

最後に清水若菜をひどく憎々しげに睨みつけ、それでも大人しく名取賢次の後を追っていく。

やがて人が散り、騒ぎも少しずつ遠のいた。

名取誠彦は清水若菜を見つめ、深い後悔を滲ませる。声はかすれていた。

「若菜……すまんな。わしのせいで、お前にまでつらい思いをさせてしもうた」

清水若菜は首を振り、背中の痛みをこらえながら、なんとか笑みを作った。

「おじい様、私は大丈夫です。そんなふうにおっしゃらないでください」

そう言って、ほんの少し肩を動かしただけで、背中に鋭い痛みが走る。思わず眉が寄り、顔色がみるみる白くなった。

「若菜、どうした? どこか痛めたんか?」

名取誠彦が慌てて声を上げる。

「平気です。少しぶつけただけですから。何日かすれば治ります」

心配をかけまいとして、清水若菜は無理やりそう言い切った。

そして名取誠彦を支えながら、ゆっくり病室へ戻していく。

「おじい様、好きな海鮮粥を買ってきたんです。先に病室で少し召し上がって、休んでいてください。私は千野教授のところへ行って、手術のことを相談してきます」

名取賢次とは、もうどうにもならない。

それでも――おじい様の病気だけは、見て見ぬふりなんてできなかった。

名取誠彦が完全によくなったら、その時こそ本当にここを離れよう。

そう自分に言い聞かせながら、清水若菜は老人を落ち着かせると、まっすぐ千野教授の研究室へ向かった。

扉の前で一度だけ呼吸を整え、中へ入る。

そして、何ひとつ隠さず、まっすぐ頭を下げた。

「先生……お願いします。おじい様の手術、先生に執刀していただけませんか」

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