第7章 かつて彼女にした約束を思い出す
名取賢次は温井有紗を連れ、都心の高級デパートへ足を運んでいた。磨き上げられた内装、きらびやかな照明。行き交う人間は皆、上質な服に身を包んでいる。
温井有紗は上機嫌で、瞳を輝かせながらブランド店へ視線を送った。声まで甘えるように弾む。
だが、名取賢次の意識はどこか上の空だった。
漫然と周囲を見回し――ふいに、一組の若いカップルに目が留まる。
二人とも飾り気のない格好で、洗いざらしの半袖はくたっとしている。裕福とは言いがたい、平凡な暮らしぶりが一目でわかった。
高値のアイスクリームカウンターの前で、彼らは長いこと迷った末、意を決したように一番小さなバニラを一つだけ買った。
男が両手で大事そうにカップを持ち、女の口元へ差し出す。
女はひと口だけかじると、すぐ押し戻し、今度は男にも食べさせた。
互いに譲り合いながら、それでも顔には満ち足りた甘い笑み。
ありふれた光景のはずなのに――細い針が不意に胸の奥へ刺さったみたいに、名取賢次の心臓がきゅう、と縮む。
三年前の記憶が、容赦なく蘇る。
会社はかつてない危機に陥り、資産は凍結。口座には回す金すらほとんど残っていなかった。
人生で最も暗い時期。1円すら半分に割って使うような貧しさ。
生まれてこの方、そんな生活をしたことがあるはずもない。
その時、清水若菜がずっとそばにいた。
どんなに安い食材でも、彼に栄養がつくよう工夫して料理を作り、食卓では決まって皿を名取賢次の前へ押しやる。本人は箸を取ろうともしない。
名取賢次が訊ねたことがある。
「なんで食べない」
清水若菜はきらきらした目で見上げ、首を小さく振った。
「もう食べたよ。賢次が食べてるの見てるだけで、幸せだから」
その言葉を、彼は疑いもしなかった。疲れと空腹で、ただ黙々と食べることしか考えていなかったからだ。
だが、ある日。
早めに仕事を片づけて帰宅し、キッチンの扉を開けた瞬間――清水若菜が隅にしゃがみ込み、腐りかけたジャガイモにかぶりついているのを見た。
市場で叩き売りされる処分品。自分なら視界に入っただけで顔をしかめるようなものを、彼女は大切そうに、ちぎるように食べていた。
名取賢次はその場で固まった。心臓を誰かに握り潰されたみたいに痛くて、息が詰まる。
駆け寄って問い詰めた。どうしてそんなことをする、どうして自分を犠牲にする、と。
清水若菜は驚いてジャガイモを取り落とし、目を真っ赤にして言った。
「今はお金がないんだもん。省けるところは省かないと。賢次は仕事してるんだから、いいものは賢次に残しておきたい」
その日、名取賢次は初めて、清水若菜に本気で心を掴まれた。
赤くなった目のまま抱きしめ、喉の奥を震わせて誓う。
「名取家が持ち直したら、絶対にお前を裏切らない」
清水若菜は彼の胸に頬を寄せ、背中をとん、とんと撫でながら、強く言った。
「信じてる、賢次。ずっと信じてる」
あの地獄みたいな日々を支えたのは、清水若菜だった。
――なのに、あの絵を見つけた瞬間、彼は目を覚ましたのだ。
……
「賢次、何見てるの?」
温井有紗の声が、現実へ引き戻す。
彼女は名取賢次の視線の先を辿り、カップルを見て唇を歪めた。嘲りを隠しもしない声。
「お金ないなら、こんなところ来なきゃいいのに。アイスひとつを分け合うとか、みすぼらしい。恥ずかしくないの?」
言い終えた瞬間、温井有紗は凍りついた。
名取賢次が、氷みたいに冷たい目でこちらを見ている。
その寒気に、心臓がひゅっと縮む。
――しまった。思ってることが口から出た。
温井有紗は慌てて表情を繕い、しおらしく名取賢次の袖を引いた。
「ごめん。ただ、可哀想だなって。ねえ……私たちがご飯でもご馳走してあげない? いいことしよ?」
善人ぶって近づこうとした、その時。
名取賢次の脳裏に、無視していた事実が突き刺さる。
少し前――清水若菜から電話があった。
病院での冷たい態度に苛立っていたところへ、温井有紗が甘えてきて、考えもせず切った。
あれほど突き放した清水若菜が、どうして自分に電話を?
急ぎの用だったのではないのか。
胸の奥に、嫌な予感がじわりと広がる。
名取賢次は躊躇なくスマホを取り出し、清水若菜へかけ直した。
呼び出し音。長い沈黙。
出ない。
一度、二度、三度。
何度かけても、返ってくるのは無機質なアナウンスだけ。
そして最後に――電源が入っていない、という通知。
名取賢次の顔色がさっと沈む。
三年。清水若菜のことは、それなりに知っている。
怒っていようが拗ねていようが、用もなく着信を無視したり、いきなり電源を落としたりはしない。
つまり――何かが起きた。
「賢次、もう話つけてきたよ。一緒に――」
温井有紗が嬉しそうに戻ってきたが、名取賢次は遮った。
「用事だ。先に行く」
鋭い声。
名取賢次はブラックカードを取り出し、彼女に渡す。
「好きに買え。ここで待ってろ」
それだけ言い捨て、踵を返す。
温井有紗は呆然と立ち尽くし、やがてぎり、と唇を噛んだ。離れていく背中を睨み、怨毒を滲ませる。
「……ほんっと、ムカつく」
……
名取賢次はショッピングモールを出るなり、秘書に電話を繋いだ。声は冷え切っている。
「今すぐ総力で清水若菜の居場所を探せ。手段は問わない。最短で見つけろ」
「承知しました、名取社長」
同じ頃――清水若菜は、郊外の古びたモーテルへ連れ込まれていた。
薬が回っている。視界がぐらぐら揺れ、身体は鉛のように重い。指先ひとつ動かせない。意識だけが、薄く沈んでいく。
誘拐した運転手がベッドの端に腰を下ろし、いやらしい目で彼女を眺めた。ざらついた手が頬を撫で回し、笑う。
「清水さん、恨むなら相手を間違えるなよ。いけない人を怒らせたんだ」
唾を飲む音が近い。
男の手が、乱暴に身体を探り始める。
「安心しろ。俺がたっぷり可愛がってやる。気持ちよくしてやるからさ」
悪寒が走り、涙が勝手に滲んだ。
逃げたいのに、動けない。声も出ない。抵抗する術が、どこにもない。
「……殺してやる」
清水若菜は舌を噛んだ。血の味が広がり、ほんの一瞬だけ意識が冴える。歯を食いしばって吐き捨てた。
男は下卑た笑いを漏らす。
「いいねえ。清水さんと寝られるなら、死んでもいいわ」
不快な顔が近づいてくる。
清水若菜は絶望の底へ沈んだ。
誰でもいい、助けて。
――もう、名取賢次には期待しない。
