第1章

 私は死んだ。

 その事実に気づいたとき、私は自宅リビングの天井近くをふわりと漂い、物置の前にうずくまる死体を見下ろしていた。

 あれは、私だ。

 死に際の恐怖が張り付いた顔。爪は根元から折れ、指先は血と肉でぐちゃぐちゃになっている。あの固く閉ざされた扉を、必死で掻きむしった痕跡だ。

 自分の亡骸をしばし呆然と見つめ――やがて、死に至った理由をゆっくりと思い出した。

 記憶が、潮のように押し寄せてくる。

 大晦日の夜。

 キッチンには温かな湯気と香りが満ちていた。私は鼻歌交じりに夕食の支度をしながら、テーブルいっぱいの料理を見たときの夫の顔を想像していた。

「もしかしたら、笑ってくれるかも」

 小さく独りごちる。

「今年の年越しこそは、本当の夫婦みたいに過ごせるかもしれない」

 六時ちょうど、チャイムが鳴る。

 胸を弾ませてドアを開けた私の目に映ったのは、夫の修ではなく、妹の琴音だった。

 琴音は継母の連れ子で、以前からこの家に出入りしている。

「お姉ちゃん!」

 彼女は甘ったるい声で私を呼んだ。

「お義兄さんが、先に姉さんのところへ行ってやってくれって。会社でまだ片付けなきゃいけないことがあるんだって」

 私の笑顔は引きつったが、身体をずらして彼女を通した。

「……入って。外は寒かったでしょう」

 琴音は足を踏み入れ、あたりを見回す。その視線が手の込んだ料理の上で一瞬止まり、ふっと細くなった。

「お姉ちゃんって家庭的ね。お義兄さんは幸せ者だわ」

 その口調は称賛のようでもあり、嘲笑のようでもあった。

 私は深く考えず、茶器を取りにキッチンへ向かう。

「座ってて。お茶を淹れるから」

「いいの、気を使わないで」

 背後から聞こえる琴音の声は、胸が痛くなるほど柔らかい。

「お姉ちゃん。実は今日来たのは、話があるからなの」

 振り返ると、彼女はうつむき、スカートの裾を指でいじりながら、言い淀んでいた。

「何かしら?」

「私……」

 唇を噛み締め、彼女の目元が不意に赤く染まる。

「お義兄さんのこと、好きになっちゃいけなかったのよね?」

 手が震え、危うくカップを取り落とすところだった。

「琴音、あなた……」

「ごめんなさい、お姉ちゃん!」

 彼女は弾かれたように顔を上げ、大粒の涙をこぼした。

「いけないってわかってる。でも抑えられないの! 初めてお義兄さんに会ったときから、私、ずっと……!」

 雨に濡れた花のように涙を流す彼女を見て、私はめまいを覚えた。

……知っていた。とっくに気づいていたのだ。

 琴音が修を愛していることも、修が彼女を特別扱いしていることも。

 琴音が来るたび、修の瞳は優しさを帯びる。私には一度たりとも向けられたことのない、あんなにも穏やかな眼差しを。

 それでも、私が良き妻として耐え忍んでいれば、いつか修も私なりの愛に気づいてくれると信じていたのに。

「琴音、泣かないで……」

 私は機械的に慰めの言葉を紡ぐ。声が乾いていた。

「修さんは、あなたのお義兄さんなのよ。そんなこと……」

「わかってるわよ!」

 彼女は私の言葉を遮り、声を荒らげた。

「だから今日、お姉ちゃんに言いに来たんじゃない! 私、出て行くわ! 遠いところへ行って、二人の邪魔は二度としないから!」

 言い捨てて、彼女は踵を返した。

「琴音!」

 私は反射的に手を伸ばした。

 その瞬間、彼女の足が滑り、身体が後ろへ傾く。

 あっ、と思ったときには遅かった。後頭部がテーブルの鋭利な角に激突し、鈍い音が響き渡った。

「琴音!」

 悲鳴を上げて駆け寄る。

 彼女は額から血を滲ませ、瞳を閉じたまま動かない。

 頭の中が真っ白になった。慌てて抱き起こそうとすると、弱々しい声が漏れる。

「お姉ちゃん……目が……見えない……」

「えっ?」

「何も見えないの……」

 彼女の声は恐怖に震えている。

「お姉ちゃん、私を突き飛ばしたの? どうして……」

「違う、してない!」

 私は必死に否定した。

「でも、押された気がした……」

 彼女は震えながら涙を流す。

「私が嫌いなのはわかるけど、こんなことしなくても……」

「本当にやってないの!」

 声が震え、心臓が早鐘を打つ。私はただ引き止めようとしただけなのに、どうしてこんなことに?

 その時、玄関の扉が開いた。

 修が帰ってきたのだ。

 彼は床に倒れた琴音を見るなり、顔色を失った。

「琴音!」

 彼は駆け寄り、琴音を抱きしめる。

「お義兄さん……」

 琴音は力なく彼に身を預けた。

「目が……見えないの……」

 修が鋭く私を睨みつける。その瞳には、憎悪と怒りの炎が燃え盛っていた。

「この子に何をした!」

「何もしてない……自分で転んだのよ……」

 私の声は震えていた。

「自分で転んだだと!?」

 修が咆哮する。

「頭から血を流してるじゃないか! 目が見えないと言ってるんだぞ! 千尋、お前はどこまで根性が腐ってるんだ!」

「本当に突き飛ばしてなんていないわ……」

「もういい!」

 修は私を遮り、琴音を慎重に抱き上げた。

「今すぐ病院へ連れて行く。帰ってくるまでに言い訳を考えておくんだな!」

 彼は琴音を抱えて嵐のように去っていった。リビングに取り残された私。冷めきった料理。遠くで鳴り響く除夜の鐘。

 私は床にへたり込み、今の光景を何度も思い返す。

 本当に、突き飛ばしてなどいない。

 ただ、引き止めようとしただけなのに。

 修が戻ってきたのは、深夜二時を回った頃だった。

 私はずっとリビングで待ち続けていた。身体は強張り、指先は氷のように冷たい。

 彼が部屋に入ってくる。その表情は恐ろしいほど陰鬱だった。

「琴音はどうだったの?」

 震える声で尋ねる。

「視神経を損傷しているそうだ。一生、視力を失うかもしれない」

 修の声は氷のように冷たく響いた。

「千尋、これで満足か?」

「私はやってない……」

 立ち上がり、弁明しようとする。

「黙れ!」

 修は私の手首を掴み上げた。骨が軋むほどの力で、思わず悲鳴が漏れる。

「お前の言葉など信じるものか。あんなに優しい琴音が、嘘をついてお前を陥れるわけがないだろう」

「修、聞いて……」

「聞きたくない!」

 彼は私を引きずり、物置へ向かう。

「お前も暗闇の中で、目が見えない恐怖を味わうといい。琴音への償い方を思いつくまで、ここから出すつもりはないからな!」

「嫌! 修、やめて!」

 私は必死で抵抗した。

「あの中に閉じ込めないで!」

 彼は物置の扉を開け、私を中へ突き飛ばした。

「修! お願い! 閉めないで!」

 這い出そうとする私を、彼は無慈悲に蹴り倒す。

「頭を冷やせ!」

 バンッ――。

 扉が閉ざされた。

 鍵のかかる音が、残酷で乾いた響きを残す。

 私は狂ったように扉を叩き、叫び、懇願した。

「修! 出して! お願い!」

「私、暗所恐怖症なの! 死んじゃう!」

「修! 修!」

 返事はない。

 あるのは闇だけ。

 絶対的な、窒息しそうな、果てしない暗闇。

 呼吸が荒くなり、心臓が早鐘を打つ。

 恐怖が津波のように押し寄せ、理性を飲み込んでいく。

 私は扉を掻きむしった。爪が剥がれ、鮮血がほとばしる。

 額を扉に打ち付ける。激痛が走る。

 喉が潰れるまで叫び続けた。

 だが、闇は消えない。

 それは生き物のように私を取り囲み、目や鼻から入り込み、肺を押し潰そうとする。

 心臓の鼓動が限界を超え、胸の中で暴れ回る音が聞こえるようだった。

 そして――激痛。

 引き裂かれるような痛み。

 私は胸を押さえ、床にうずくまり、空気を求めて喘いだ。

「助け……て……」

「修……おねが……い……」

「死にたく……ない……」

 鼓動が乱れ、弱まっていく。

 闇が収縮し、私を締め上げる。

 そして、すべてが静止した。

 再び『目覚めた』とき、私は一縷の幽霊となっていた。

 物置の天井付近を漂い、小さく丸まった死体――私自身の亡骸を見下ろしている。

 私は死んだ。

 新年の夜に。

 修の冷酷さの中で。

 泣きたくても、涙は出ない。

 憎みたくても、もうその資格さえ失ってしまった。

 ただこうして漂い、自分の死体を見つめながら、死よりも深い悲しみを噛み締めていた。

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