第2章

「一体どういうことだい?!」

 703号室の老婆が鋭い声で咎め立てしながら、ドアから姿を現した。

 廊下の照明が一斉に点灯し、周囲のドアが次々と開いていく。顔を出した住人たちは目を丸くし、ひそひそと囁き合いながら、指を差して私をねめつけた。

 私は冷たい床にへたり込み、全身の激痛に震えていた。

 「観客」が増えたのを見て、真理恵の態度は一瞬にして豹変した。

 先ほどまでの勝ち誇ったように嘲笑う浮気相手の顔は消え失せ、今やひ弱で無実な、痛ましい被害者そのものになりきっている。

 彼女は大きくなったお腹を庇うように押さえながら、隆二の胸にすがりつき、堪えきれない様子で泣き崩れた。

「お願いです、助けてください!」

 真理恵は声を震わせて泣き叫んだ。

「この頭のおかしい女が、ずっとうちの主人に付きまとってるんです!」

「はあ?」

 私は息を呑み、もがきながら立ち上がろうとした。

「私がこの人の妻よ!」

 真理恵は一瞬の隙も与えず、住人たちに向かってさらに泣きついた。

「私たち、もう結婚して七年になるんです!」

 しゃくり上げながら彼女は続ける。

「お祭りの時期には皆さんにお配り物もしてきました! お留守の時には、宅配便だって代わりに受け取っていたじゃないですか!」

 住人たちの表情が、途端に変わった。

 真理恵に向けられた同情は、瞬時に私への嫌悪と軽蔑にすり替わったのだ。

「そういえばそうね、真理恵ちゃんは普段から本当にいい子だし」

 年配の女性が小声で呟く。

「この狂った女、一体何者なの?」

「私こそが妻なのよ!」

 絶望が鋭い爪となって喉を締め付ける中、私は張り裂けんばかりの声を上げた。

「私と隆二が結婚して七年になるの! 私は上の802号室に住んでるんだから!」

「あんな女、今まで一度も見たことねえな」

 廊下の奥にいる男が冷笑する。

「ケバケバしい格好しやがって」

「亡くなった両親の遺産整理に追われていたの! 毎日朝早くから夜遅くまで出かけていて!」

 悔しさと怒りに声が震え、私はむせび泣きながら必死に弁解した。

「だから皆さんは私のことをご存じないだけなの!」

 しかし、私の訴えは住人たちのひそひそ話にかき消され、あまりにも無力で、瞬く間に呑み込まれてしまった。

 彼らの目に映る私は、被害者などではない。精神を病んだ不倫相手であり、幸せな家庭を壊そうとする狂女でしかなかった。

 そして、この世で最も恐ろしい悪夢のような光景が目の前に広がった。

 実の息子である陽翔が、隆二の背後から姿を現したのだ。

「この悪いおばさん、いつも暴れに来るんだ!」

 陽翔は淀みなく言い放った。その高く澄んだ声は、わざと全員に聞こえるように大きく響き渡る。

「陽翔! そんなこと言っちゃ駄目!」

 呼吸もままならず、魂を引き裂かれるような思いだった。

「陽翔、私がお母さんでしょう! 皆にそう言って!」

 陽翔はあからさまに嫌な顔をして、さらに真理恵のそばへとすり寄った。

「このおばさん、僕の真理恵お母さんをいつもいじめるんだ!」

 小さな指で私を指差しながら、彼は言葉を続ける。

「僕のことも突き飛ばしたことがあるんだよ!」

 周囲の住人たちが息を呑む音が聞こえ、廊下はたちまち怒りに満ちたざわめきに包まれた。

 こうして、わずか六歳の我が子が、私の棺桶に最後の一撃として釘を打ち込んだのだ。

 全員の目の中で、私の姿は陰湿で暴力的、執念深いストーカーとして完全に定着してしまった。

 自分の完全勝利を確信したのか、真理恵は隆二の腕の中から抜け出した。

 パァン!

 彼女は力任せに私の頬を平手打ちした。

 顔の半分に鋭い痛みが弾け飛んだが、胸が張り裂けそうなほどの苦しみに比べれば、こんな痛みなど無に等しい。

「この恥知らずのクズ女!」

 真理恵が私に向かって金切り声を上げた。

 彼女は床一面にぶちまけられた手料理の汁やおかずを大げさに指差し、声を荒らげる。

「今夜だってわざと来たんでしょう! 私を流産させる気だったのね!」

「違う! あんたが嘘をついてるんでしょう!」

 私も負けじと声を振り絞り、飛びかかろうとしたが、隆二に乱暴に突き飛ばされた。

 隆二は住人たちの目の前で、ドスンと床に膝をついた。

 両手で顔を覆い、肩を激しく震わせる。まるで声を出して泣き崩れているかのような演技だ。

「すまない、真理恵!」

 隆二はすすり泣きながら、後悔に苛まれる夫という役柄を完璧に演じきっていた。

「あいつが一方的に付きまとってきただけなんだ! 誓ってあいつのことなんて愛してない! 頼む、もう一度だけチャンスをくれ!」

「ああ、可哀想にねえ」

 年配の女性が同情の溜息を漏らし、慌てて歩み寄って真理恵の肩を叩いた。

「許してあげなさいな。男なんて間違いを犯す生き物なんだから。でも、お腹の子供のことも考えてやらないとね」

「みんな目が見えないの?! 私には証拠があるのよ!」

 私は半ばヒステリックに絶叫した。

 必死にポケットを叩き、狂ったようにスマートフォンを探す。

 ――空っぽだ。

 二人のウェディングドレスの写真も、すべての記録も、あのスマホの中にある。そしてそのスマホは、上の階の自宅に置き去りにされたままだ。

「動かないで! 私たちの結婚式の写真があるの!」

 そう叫び残して身を翻し、階段に向かって駆け出した。よろめきながらも八階へと駆け上がる。

 自宅のドアの前に飛び込んだ。

 震える手を伸ばし、電子ロックのパネルに触れる。

 パスワードが、無効になっている。

 入力を消し、もう一度打ち直す。手の震えが止まらない。何度やっても、一切の反応がない。

 思いつく限りの番号の組み合わせを試したが、どれも弾かれてしまう。

 パスワードは、何者かによって完全に変更されていたのだ。

 私は、自分の家から閉め出されてしまった。

 このマンションは、私が両親の遺産を使って買ったものだ――それなのに、隆二がスマホで遠隔操作し、ロックの設定を変えてしまったのだ。

 パニックと怒り、そして屈辱が怒涛のように私を飲み込んだ。激しく踵を返し、再び下の階へと駆け下りる。702号室へと突進し、狂ったように重たい扉を叩きつけた。

「隆二! 開けなさい!」

 怒号を響かせ、扉を蹴りつける。

「私を自分の家に帰しなさいよ!」

 ドアは固く閉ざされたままだったが、冷酷で陰湿な隆二の声が、扉越しにゆっくりと響いてきた。

「せいぜい騒げばいいさ、美憂」

 隆二の声には威嚇の色が滲み、冷笑が滴り落ちるようだった。

「鍵を変えたわね! 私の息子まで奪い取って!」

 泣き叫びながら、私は額をドアに押し当てた。

「俺にはな、市民病院の精神科で働いてる親友がいるんだ」

 隆二は扉越しに、底意地の悪い声で告げた。

 私の呼吸が、喉の奥でピタリと止まった。

「もし今すぐ黙ってここから消えないなら」

 冷え切った口調で隆二は言う。

「お前が重度の双極性障害だってことを、全員に言いふらしてやる」

「まさか、そんな……」

 声が震え、ついに恐怖が怒りを打ち砕いた。

「お前を精神病院にぶち込んでやるよ」

 彼は声を出して鼻で笑った。

「皆にお前が狂ってると思わせてやる。お前の人生、跡形もなくぶっ潰してやるからな」

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