第3章

 クリスマスイヴ。共有廊下を吹き抜ける木枯らしは、鋭い刃のように骨の隙間へと潜り込んでくる。私は薄っぺらい綿のルームウェア一枚のまま、氷のように冷え切ったコンクリートの床にうずくまり、ただガタガタと震えていた。

 肌はすでに不気味な紫色に変色し、呼吸をするたび、粉々に砕かれたガラス片を吸い込んでいるかのように肺が激痛を訴える。

 ここからわずか数センチ先、七〇二号室のドアの向こうからは、絶え間なく暖気が漏れ出している。

 だが、私を真に苛ぶっているのはその扉の向こうの温度ではない。中から漏れ聞こえてくる笑い声だ。

「陽翔、見て見て! 真理恵お母さんが買ってあげたこれ、気に入った?」

 真理恵の甘ったるくも毒を含んだ声が、容易くドア越しに響いてきた。

「すっごい!」

 陽翔が興奮気味に叫んだ。

「真理恵お母さんがくれたラジコン、美憂がくれたやつより百倍も面白いよ! もうあんなやつ、ずっと家に帰ってこなくていいよ!」

 美憂。——『お母さん』ではなく、美憂。

 私がお腹を痛めて産んだ六歳の息子は、たった一つのプラスチックの玩具で完全に懐柔されてしまった。彼らの手にある最も鋭利なナイフと化し、私の心臓の奥深くへと、少しずつ、少しずつ抉り込まれていく。

 視界がぼやけ始め、極寒と苦痛のなかで意識が遠のく。

 どうして私は、こんな惨めな境遇に陥ってしまったのだろう。

 裏切りの重圧に押し潰されそうになる思考は、とめどなく七年前へと遡っていく。その日は土砂降りの雨で、街全体が水没しそうなほどだった。私はひどい高熱を出し、意識朦朧としていた。

 あの頃の隆二は車すら持っておらず、まさに一文無しだった。

 それでも彼は、ボロボロの自転車を漕ぎ、身を切るような冷雨のなかを三十キロも走り抜いてきた。ただ私に、温かくて胃に優しい一杯のお粥を届けるためだけに。

 私はその一杯のお粥のために、彼に嫁いだのだ。

 裕福だった両親は、そんな甲斐性のない男との結婚に猛反対した。しかし、当時の私にはどうでもよかった。家の財産を捨ててでも、私は彼を選んだのだ。

 この七年間、彼は『良き夫、良き父』という仮面を完璧に被り通してきた。

 毎月の給料は全額欠かさず家に入れ、飲み歩くことも滅多になく、交友関係も狭かった。

 彼の襟元から見知らぬ甘ったるい香水の匂いがしたときも、『エレベーターが満員で、うっかりこすれちゃったんだ』という見え透いた嘘を、私は微塵も疑わずに信じ切っていた。

 起業したい、自分の会社を持ちたいと彼が口にしたときでさえ、私は瞬き一つせず、亡き両親が遺してくれた莫大な遺産をすべて初期資金として彼に渡した。

 それがすべて、周到に仕組まれた罠だったとも知らずに。

 深夜までの残業なんて、最初から存在しなかった。

 彼の言う『出張』とは、八階から七階へ、階段を一つ降りるだけのことに過ぎなかったのだ。

 私が上の階で両親の死を嘆き悲しみ、遺された資産の管理に奔走している間、彼は私の足元、たった一階層下で、浮気相手との第二の家庭を堂々と築き上げていたのだ。

 やがて、廊下の突き当たりにある小窓から、刺さるような朝日が差し込んできた。

 カチャリと音を立てて、七〇二号室のドアが内側から開く。隆二が私の前に立ち、床で小さく丸まる私を見下ろした。

 一晩ぐっすり眠ったのだろう。清潔な服に着替え、顔色もツヤツヤとしている。

 私に向けるその視線に、一抹の憐れみすらない。それどころか、私を『人間』としてすら見ていない。

 彼はボロボロの綿入れを私の顔に向かって無造作に投げつけた。野良犬に食べ残しを放り投げるかのような仕草で。

「外で騒ぐのはもう気が済んだか?」

 隆二は嘲るように冷笑し、嫌悪感を隠そうともしない。

「それを着ろ。みっともなくて俺が恥をかく」

 凍えきって感覚のない指でその綿入れを掴むが、顎がガクガクと震え、言葉を発することすらままならない。

「美憂、よく聞け」

 隆二は高圧的な態度で命じてきた。その声には、傲慢な支配欲が満ち溢れている。

「お前がおとなしくして、これ以上真理恵にちょっかいを出さなければ、俺たちの生活は今まで通りに続けていける」

「今まで通り?」

 私はしゃがれた声で鋭く聞き返した。声帯が硫酸で焼かれたようにヒリヒリと痛む。

「妊娠した浮気相手を下の階に住まわせておいて、それが普通だっていうの?」

「真理恵が今お腹に宿しているのは、俺の二人目の子どもだ」

 隆二は鬱陶しそうに私の言葉を遮り、露骨な嫌悪を滲ませた。

「お前は陽翔を一人しか産めなかったじゃないか。むしろ真理恵に感謝するべきだろ。この家を『拡大』してくれたことにな」

 感謝しろ?

 愛人に頭を下げて礼を言えと?

 私の夫を、私の子どもを、そして両親が遺してくれた全財産を奪い取った女に、感謝しろというのか?

 この男の破廉恥さは、もはや『厚顔無恥』という言葉すら生ぬるい。

 あの年、雨を冒して自転車でお粥を届けてくれたあの青年は、とうの昔に死んだのだ。

 今、私の目の前に立っているのは、強欲でナルシストな血も涙もない怪物。私のすべてを骨の髄までしゃぶり尽くす、おぞましい寄生虫だ。

 今ここで彼に真っ向から逆らえば、私はさらに悲惨な敗北を喫することになる。

 彼はすでに私を閉め出し、家から追い出した。

 この階の住人たちも、ことごとく彼を味方につけている。

 しかも、これ以上騒ぐなら精神科病院にぶち込むとまで脅してきているのだ。

 スマホが必要だ。家に戻らなければ。なんとしても、あの部屋に入らなければ。

 私は喉元まで込み上げてきた怒りと憎悪を、無理やり呑み込んだ。

「わかった……」

 私はむせび泣き、ことさら弱り切った悲痛な声を絞り出した。

「ごめんなさい、隆二。私が悪かったわ」

 隆二の目が途端に輝きを増した。思い通りになったと確信した、自己満足に浸るような光だ。

 彼は一歩後ろへ退き、まるで自分の勝利の果実を余裕たっぷりに鑑賞しているかのようだった。

「ただ、あなたを失うのが怖かっただけなの」

 私は彼を見上げ、持てる力のすべてを振り絞って卑屈で従順な表情を作った。その瞳に媚びと恐怖を張り付けて。

「あなたの言う通りにする。なんでも言う通りにするから。お願い、中へ入れて」

 彼は口角を吊り上げ、ひどく満足げに笑った。私の演技を微塵も疑うことなく。

「いい子だ」

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