第4章

 隆二は自宅の電子錠に新しい暗証番号を打ち込んだ。

「よく聞け、美憂」

 威圧的な響きを孕んだ声で、彼は警告した。

「新しい番号を知っているのは、これで俺だけになった」

 ドアを押し開き、私を見下ろす。

「もう癇癪を起こすなよ。大人しくしていれば、ちゃんと『面倒』を見てやるからな」

 私が先ほど見せた弱々しい芝居を、彼はすっかり信じ込んでいた。彼からすれば、私は夫なしでは生きられない、小金を持っているだけの役立たずな箱入り娘にすぎないのだ。

 私が敷居を跨ぐより早く、彼のスマートフォンが震えた。

 隆二が画面を一瞥すると、その冷酷な双眸は一瞬にして、反吐が出そうなほど白々しい優しさへととろけた。

「もしもし、ベイビー?」

 受話器越しに甘ったるい声を出す。

「もちろんさ。すぐ下に行って、一緒に妊婦健診に行ってやるからな」

 私には一瞥すらくれなかった。

 隆二は振り返り、六歳になる息子に声をかけた。

「陽翔、家でお母さんと少しお留守番していてくれるか?」

 それは到底、父親の愛情に満ちた優しい頼み事などではなかった。

 陽翔をここに残し、自分の監視役に仕立て上げているのだ。

 隆二の背後でバタンとドアが閉まるや否や、私は玄関のコンソールテーブルへ駆け寄った。

 私のスマートフォンは、元の場所で静かに横たわっている。

 それをひったくるように掴み取り、主寝室へと真っ直ぐに向かった。

「どこ行くのさ!」

 甲高く、刺々しい声が唐突に響き渡った。

 陽翔が私の行く手を塞ぐように立ち塞がり、小さな両腕を胸の前でしっかりと組んでいた。

 私をきつく睨みつけるその瞳には、紛れもない敵意が宿っている。

「お父さんの物、盗もうとしてるんでしょ!」

 息が急に詰まった。

 自分の家で、お腹を痛めて産んだ我が子に、まるで卑しい泥棒のような口調で尋問されているのだ。

 私は無理やり、引きつった震える笑みを浮かべた。

「違うわよ。お母さん、少し休みたいだけなの。あなたの好きなお菓子、食べない?」

「そんな馬鹿みたいなお菓子、いらないよ!」

 陽翔は鼻でせせら笑った。その高圧的な態度は、父親のそれをそっくりそのまま写し取ったかのようだ。

 彼は腕を持ち上げると、スマートウォッチを操作し、音声メッセージのボタンを長押しした。

「お父さん、あの人が主寝室で色々引っ掻き回してるよ」

 陽翔はわざと声を張り上げ、私にきっちりと聞こえるように一言一句『報告』した。

 こそこそ隠れる素振りすら見せない。

 私を売ることを当然の権利だと思い、あろうことか誇りにすら思っているのだ。

 勝ち誇ったような鼻鳴らしを残し、陽翔は背を向けてリビングへ入り、アニメの音量を最大まで引き上げた。

 私はもう一秒たりとも無駄にしなかった。

 主寝室に滑り込み、すぐさま内鍵をかける。

 ウォークインクローゼットへ直行し、ずらりと並んだ隆二のスーツを乱暴に押し除けた。

 その奥には偽の壁板が隠されており、さらにその後ろには重厚なダイヤル式の金庫が埋め込まれている。

 これは亡き母の嫁入り道具の一つだ。

 私が気弱でぼんやりしているから、金庫の暗証番号など覚えられるはずがない――隆二はそう高を括っていた。

 大間違いだ。その番号を、私は片時も忘れたことなどない。

 カチッ。カチッ。カチッ。

 分厚い金属の扉が低い音を立て、ゆっくりと手前に開かれた。

 床に膝をつき、真っ暗な金庫の奥へと手を伸ばす。ずっしりと重いファイルの束が次々と引きずり出された。

 一番上のファイルを開いた瞬間、全身の血が氷のように冷え切った。

 銀行の取引明細。びっしりと印字された、目を疑うほど巨額の送金記録の数々。

 そのすべてが、たった一人の受取人へと流れている――前田真理恵。

「……クズが」

 奥歯を噛み締め、低く呪うように吐き捨てた。

 震える手を抑えきれぬまま、さらに奥を探り、今度は法的な書類の束を引き抜いた。

 隆二の会社の株式保有に関する契約書だ。

 急いで最終ページをめくると、そこには見事なまでに整った署名があった――私の名前が、完璧に偽造されていたのだ。

 だが、私の心臓を真に凍りつかせたのは、金庫の一番底に眠っていた書類だった。

 それは、両親が交通事故で亡くなった後の、すべての賠償金に関する詳細な財務リスト。

 三年前、隆二は私の目を真っ直ぐに見つめ、一言一句たがわず誓ったのだ。あの金は法的手続きの問題で裁判所に凍結されていると。

 蛍光ペンでマーキングされた銀行口座の羅列を、私は瞬きもせずに見つめた。

 賠償金など、初めから一度たりとも凍結されてはいなかったのだ。

 三年前に、すっかり底をつくまで引き出されていた。

 両親が命と引き換えに残した金は、一円残らず隆二の個人口座へと移されていたのだ。

 その金こそが、彼の起業の元手だったのである。

 そして、702号室の高級マンションをポンと現金一括で買い上げ、真理恵に『愛の巣』として与えた資金でもあった。

 私の個人資産は、すでに骨の髄までしゃぶり尽くされていた。

 事実が、制御不能に陥った貨物列車のように真正面から私に激突する。

 これは単なる不倫などではない。

 綿密に計画され、段階を踏んで実行された虐殺なのだ。

 私は一歩また一歩と、自分から進んで隆二の巧妙な罠に落ちていった。そして彼は、階下の身籠もった浮気相手を養うためだけに、私の家族の血肉をゆっくりと貪り食っていたのだ。

 胸の奥で凍りついていた雪が完全に融け去り、代わりにすべてを焼き尽くすマグマのような怒りが沸き上がった。

 涙は出なかった。もう涙など枯れ果てていた。

 スマートフォンをひったくり、カメラを起動させ、狂ったようにシャッターを切り続けた。すべての書類、偽造された署名、致命傷となる送金記録の数々を。

 証拠はこの手にある。

 これこそが彼の『凶器』だ。

 寝室のドアに耳を押し当てた。

 リビングのテレビからは、爆発のSEとアニメのスーパーヒーローが戦う音が、けたたましく響いてくる。

 陽翔は画面の前に釘付けになっているはずだ。

 そっとドアノブを回し、極限まで身を屈める。足音ひとつ立てずに廊下を抜け、一筋の亡霊のように玄関から滑り出た。

 冷たい歩道を小走りで駆け抜け、ビジネス向けのプリントショップの看板が目に入るまで立ち止まらなかった。

「このデータを全部、十部ずつプリントアウトしてください」

 カウンターにスマートフォンを叩きつけるように置き、店員に告げた。

「かしこまりました。ただいま」

 プリンターが高速で稼働し始め、隆二の自滅を告げる判決文が次々と吐き出されていく。

 今夜は、隆二の会社の盛大なディナーパーティーだ。

 自身の副社長就任を祝うための席である。

 会社の幹部連中が勢揃いする。

 役員たちも来る。

 彼が束ねる中核のマネジメント層や、最重要の取引先もこぞって顔を出すのだ。

 十部にも及ぶ分厚い証拠の束をきっちりと揃え、重いレザーのトートバッグにねじ込んだ。

 店を出て、通りかかった黄色いタクシーを呼び止める。

「どちらまで行かれますか?」

 運転手がルームミラー越しに私をちらりと見た。

「グランドホテルまで」

 冷え切ったほどに静かで、同時に人を切り裂けそうなほど鋭い声で、一文字ずつはっきりと告げた。

 隆二は、仕事で成功を収め、家庭を愛する模範的な良き夫の仮面を被り続けるつもりなのだろうか。

 私の両親の屍を土台にして、きらびやかな帝国を築き上げようというのか?

 絶対に許さない――!!!

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