第2章

 彼女たちは、志保をそう簡単には逃がしてやらなかった。

「ねえ志保さん、船内見学っていつなの?」

「日程ちょうだいよ、ねえ」

 志保はコーヒーをひと口すすった。「手続きがまだ全部通ってないの。終わったらみんなに知らせるね」

 私はもう一度、顔を上げた。

「その手続き、通らないんじゃない」

 部屋の空気が、すっと固まった。

「それとも、私たちじゃあなたのヨットに相応しくない?」

「あるいは、その契約、そもそもあなたのものじゃないとか」

 一番声の大きい連中のうち数人が、互いに目配せした。ほんの一瞬、そしてすぐ逸らす。

 志保が答えるより先に、ドアが勢いよく開いた。

 部長が、ノートパソコンを小脇に抱えて入ってきた。一直線に志保の机へ向かうと、志保の肩に手を回し、まるで学生時代からの友だちみたいに馴れ馴れしく話しかけた。

 それから、私のほうを向く。

「芹奈」

「あなたの結婚が幸せじゃないことは知ってる。将来性のない男と結婚したこともね。それはあなたの勝手よ。でも、その不幸を周りに撒き散らさないで」

 部長はノートパソコンを机に置いた。

「志保のこのヨットの件。遠藤社長が直々に私に電話してきて、手続きが滞りなく進むようにって言われた。私は最初から最後まで情報共有を受けてた。あなたがこれ以上、同じような『演技』をするなら――役員会に、あなたが顧客窓口に相応しいかどうか、改めて検討するよう提案する」

 私は部長の視線を受け止めた。答えない。

 答える必要もなかった。周りの合唱が、半拍で引き継いだ。

「芹奈、マジで頭おかしいの? 志保に噛みつくとか」

「部長のことすら尊重しないんだね。あなた、この会員制クラブに居座れると思ってるの?」

「書類出すだけの子が、会員に尋問? 今朝、頭でもぶつけた?」

「私があの子の夫だったら、恥ずかしくてたまらない」

 私は修平をちらりと見た。

 彼は、まるで株価チャートでも見ているみたいに、画面を凝視していた。

 志保は、彼女たちにもう少しだけ言わせた。そこから、ふわりと手を振る。

「いいよ。もうやめよう」

 志保は部屋の向こうから、私に向かって微笑んだ。

「今回は大丈夫、芹奈さん。でも次は、助けてくれる人が近くにいないかもしれないよ」

 昼休みのあと、周りの空気が一変した。

 誰かが、私の言ったことを一語一句スクリーンショットして、会員制クラブの全体グループに投稿したのだ。四百人。古参、新しい会員、理事席の面々、配偶者まで。

 返信が雨あられと降ってきた。

「この人誰? なんで二階堂さんに絡んでるの」

「ヨットへの嫉妬って、見苦しいよね」

「窓口担当って、会員に尋問していい規定になったんでしたっけ。誰か確認して」

「二階堂さん、大丈夫? 必要なら会員制クラブとして声明出す?」

 志保は、そのどれにも直接返さなかった。

 代わりに彼女が投稿したのは、内装の完成予想図だった。チーク材の床、ネイビーのベルベット、間接照明に縁取られたスカイデッキの手すりの曲線。六枚。プロの仕上がり。

 その上に、たった一行を固定した。

「手続きが通ったら、『大事な人』だけ乗せるね」

 私は部屋の向こうの修平を見た。

 彼はそれを二度読んだ。それから志保のアイコンをタップし、フォローして、個別メッセージを送った。何を書いたかは見えない。彼はスマホを机にぺたりと伏せるように置いた。

 五秒後、返信が来ていないかまた画面を確認した。

 私はプリンターから請求書の束を引き抜き、机に揃えて打ちつけた。

 一瞬だけ、拳の関節が白くなる。

 それから私は、もう彼を見ないことにした。

 夜、ノートパソコンを閉じる前に、私は最後にもう一度全体グループを確認した。

 最新のメッセージは修平のものだった。

「志保さん、あなたのヨット、とても素敵ですね。次はぜひ連れて行ってください」

 その下に、ハートが並び、いいねが並び、拍手の手が並んだ。

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