紹介
十秒後、彼女はそれを削除した。軽い謝罪。「あ、グループ間違えた」
私は消える前にもう一度その写真を見た。数字は確認しなかった。船首に描かれた名前を見た。
それは母の名前だった。
そのヨットは私のものだった。父が一週間前に教えてくれていた。
チャットは気にも留めなかった。「彼女、どこの家の子?」「全長29メートルのカスタムチーク材」「志保、やるじゃない」
私は静かに、船舶登録番号を教えてもらえないかと尋ねた。彼女が何と言うか聞きたかった。
私の夫が二つ隣の席から立ち上がり、部屋にいる全会員の前で私を罵倒した。嫉妬していると言った。恥さらしだと言った。身の程を知れと言った。
その週の後半、夫は私の金庫をこじ開けた。父が母のために私に託したダイヤモンドを盗み出し――彼女の首にかけた。
その夜、どこかの海上から父の暗号化された音声メモが届いた。一分間。最後の言葉はこうだった。
「お母さんのネックレスを探せ。私は彼女を身につけられない。お前が私のために彼女を身につけてくれ」
チャプター 1
月曜の朝。二階堂志保がこの会員制クラブの会員になって、まだ一週間も経っていないのに、彼女はもうチャットで話題をさらっていた。
スクリーンショットがグループに投下されてから、ほんの数秒。ヨット購入契約書。
「飛鳥」。
彼女の添え書きはこうだ。
「誕生日プレゼントありがとう、パパ!」
そしてすぐ消えた。次の瞬間には、
「おっと。チャット間違えた。ごめん」
謝罪の絵文字が雪崩みたいに押し寄せることもない。口止めの懇願もない。ただ、無垢に見える程度の薄さだけ残して。
グループは彼女抜きで回り続けた。
「『飛鳥』って、去年、繁華街のほうで『売り物じゃない』って噂になってたやつじゃない?」
「全長29メートル。特注のチーク材だって。メーカーが十億以上の提示を蹴ったって聞いたけど」
「誕生日に子どもにヨットって、どんな家だよ」
「志保さん、マジで、どこの家の人?」
うちの夫――菅田修平も、そのチャットにいた。私は、皆の発言の下に彼のメッセージが投稿されるのを見た。
「志保さん、初出航で荷物持ちが必要なら、俺でよければ名乗り出るよ」
笑いの絵文字が三つ。半分の連中が同じ調子で乗っかっていく。
私は水の入ったグラスを手に取った。置いた。また手に取った。
手が、じっとしてくれない。
男の好意がいくらで買えるものだとしても、金を払って手に入れるものなら、靴底の泥ほどの価値もない。
修平は立ち上がり、勲章でも受け取りに行くみたいに部屋を横切った。両手で、印刷された用紙を志保に差し出す。
「志保さん。今朝、新規会員の入会金免除、通しておいたよ。手続きが減るだろ」
志保は用紙を見て、それから修平を見た。
「……失礼ですけど?」
「え?」
「私に何を言いたいんですか。入会金が払えないとでも?」
修平は口を開けて、閉じた。
「いや。そうじゃなくて。俺は、ただ……」
「破って」
彼は破った。その場で。彼女の目の前で。
背後で誰かが鼻で笑った。「修平、相手が二階堂だぞ。そんな施し、彼女には靴の埃を払ってやる程度にもならない」
「十年早いってことだな」
修平は私を見ないまま、そそくさと自分の机へ戻っていった。
私は、志保が削除する前にスクリーンショットをもう一度開いていた。数字は確認していない。船首に掲げられた名前だけを見た。
「飛鳥」。
母の名前。
先週の水曜日、ヨットハーバーにいる父から電話があった。どの船かは言わなかった。ただ、こう言った。
――誕生日プレゼントが水の上に浮かんでる。船首には、お母さんの名前が書いてある。
キーボードの上で、指が止まる。
顔を上げた。
「二階堂さん。登録番号、教えてもらえる? 確認したいことがあるの」
事務所の空気が、ぴたりと止まった。
志保の顔が、ほんの半秒だけ固まる。すぐに首をかしげ、砂糖を溶かしたみたいな声を出した。
「芹奈さん。クラブの会員に対して、その言い方?」
誰かが、すぐに彼女に加勢した。
「芹奈、何やってんの? 志保さんにヨット貸してもらって、クラブ見学ツアーでもしたいの? 例の顧客窓口で自慢話のネタでも作るつもり?」
「放っとけよ、清子。嫉妬だろ。二十三でヨット持ち、芹奈は二十五で書類作り」
修平が椅子を乱暴に引いた。「芹奈。どうしたんだよ。志保さんは入ったばかりだぞ、なにやってんだ。今日おかしいのか?」
「志保さんは何も言ってないのに、もう絡んでるし」
「いつも書類いじってるやつほど、こういうとこあるよな」
志保は、ゆっくりため息をついた。警戒する猫に接するように、辛抱強く。
「みんな、大丈夫よ。芹奈さんはたぶん、こんなものを近くで見たことがないの。気になるのは普通よ」
「責めないで。私のせいにしなくていいから」
この部屋の誰も、笑いのツボに気づいていない。
そのヨットは、私のものだった。父は先週、そう言っていた。私はまだ見に行ってすらいない。
父が、私を先にここのスタッフとして入れると決めたのだ。頭を低くして、受付が何を捌いているのか学べ。そうしてから、社交の場で「自分はここにいるべき人間です」みたいな顔をするんだ――と。私は、うなずいた。
先週の水曜と今朝のあいだのどこかで、二階堂志保は私の契約書の写真を手に入れて、それを自分のものみたいに掲げて見せつけた。
私は沈黙が落ち着くのを待ってから、笑った。
「そうね。確かに、見たことないもの」
「じゃあ、せっかく優しい志保さんがいるんだし、係留場所に招待してくれない? ああいうヨットを見たことがない私たちに、見せてよ」
周りが一気に湧いた。
「いいね! いいね!」
「初出航パーティーだ、志保さん、頼むよ」
「俺、リストの一番上に入れて」
志保の笑顔は、顔に貼りついたままだった。
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