第3章
土曜の朝。
私はアイロンをかけたシャツを修平に差し出した。
「今日はお母さんの命日よ。先週、いっしょに来るって言ったでしょう」
修平は鏡の前でネクタイを輪にしていた。
「言ったっけ」
答えを待ちもしない。鍵をつかむと、そのまま出ていった。
私はひとりで行った。
うちの建物の近く、カフェの角に黒いベントレーが停まっていた。その後ろで車が二台、エンジンをかけたまま待機している。執事の黒田が先頭の車から降り、私のために後部座席のドアを開けた。
「お嬢様」
私は乗り込んだ。
しばらく街が流れていってから、黒田が口を開いた。
「お嬢様。前から、お聞きしたいことがございまして」
「うん」
「なぜ、まだあのマンションにお住まいなのですか。なぜ、いまも住宅ローンをお支払いになっているのでしょうか」
私は窓の外へ視線を投げた。
「修平が頭金を入れたの。結婚前に、毎月の支払いは半分ずつって決めてた」
「……それで、その後は」
「私が払ってる」
黒田は一分ほど黙った。
「もし旦那様がご存じなら……」
「言わないで」
黒田はうなずいた。少ししてから、視線は道路に据えたまま言う。
「旦那様より、伝言を預かっております。海上での任務が、あと二週間。今夜どこにいようとも、お母様のために、船べりで一杯あけるとのことです」
私は一度だけうなずき、また窓へ戻った。
母の追悼の庭に着く。
私は、母の名が刻まれた場所のそばのベンチに腰を下ろした。
何も言わない。ただ、糸杉よりも太陽が高くなるまで、そこに座っていた。
黒田が私を街へ戻す前、コートの内ポケットから小さなチーク材の箱を取り出した。
両手で差し出してくる。
「旦那様から、お渡しするようにと。『今年の誕生日には、これを身につけてほしい』とのことです」
箱を開けた。
ダイヤのペンダント。これを見るたび、母を思い出す。母は美しかった。
黒田はそれ以上、何も付け加えない。
「お母様の品でございます、お嬢様。『お嬢様なら分かる』と」
私は箱を閉じた。
指先がふたの上に、二秒だけ残った。
その日の夕方、私は箱を金庫に入れ、ダイヤルを回した。
火曜の朝、私はそのネックレスをもう一度見た。志保の首にあった。
開襟のシャツの胸元からのぞき、石が喉のくぼみにおさまっている。
デスクの半分が立ち上がった。
「志保さん、それって繁華街のオークションのやつ? カタログの写真で見た気がする」
志保は笑って、うっとうしそうにそれに触れた。
「修平さんがくれたの。いくらかは言わなかったけど。たぶん、タダみたいなもんでしょ」
修平は出入口の枠にもたれていた。肩を反らしすぎて、見ているだけで痛そうだった。
私は立たなかった。
ノートパソコンを開く。黒田にメールを打った。
「寝室の隠しカメラ映像を回収して。今週中に」
昼休み、私は机の下でスマホを見て、クリップを再生した。
修平は夜遅くに帰ってきた。まっすぐ寝室へ行く。金庫の前にひざまずき、結婚記念日を入力した。開いた。チークの箱を取り、出ていった。
私はそのファイルを、会員制クラブの給仕係たちの端末には存在しないフォルダへ保存した。
ノートパソコンを閉じ、仕事に戻った。
グループチャットはまだ続いている。
「修平、お前ずっと隠してたんだな」
「やるじゃん。自分の船持って、奥さんを従業員にするってか」
「ずっと嘘ついてたんだから、一日奢れよ。覚悟しろ、修平」
褒め言葉に顔を赤くしながら、修平はグループチャットにメッセージを投稿した。
「土曜、午後三時。青葉台リゾート、西の浜辺。バレー、サンセットパッケージ、三十名枠」
名前のリストがその下に埋まっていく。私の名前はなかった。
私は社内の予約システムを開いた。
土曜午後の西の浜辺は、三週間前に別の会員がすでに押さえていた。修平はその予約をシステム上で自分の名義に引き抜き、会場使用料だけ未払いのままにしていた。
私は警告は出さなかった。
代わりに、元の会員へ電話を入れた。
電話を切り、ノートパソコンを閉じる。
さあ、これをどう切り抜けるつもり?
