第1章
出産予定日が迫り、夫の平野光希の運転で病院へ向かっていた。
だがその途中、光希がいきなり急ブレーキを踏んだ。
彼の視線の先を追うと、そこに小崎美由がいた。
彼の元カノだ。
土砂降りの中、彼女は両手に重そうな買い物袋を提げ、胸には牛乳の段ボール箱を抱えている。脇には三歳になる息子が、彼女の服を必死に掴んで歩いていた。
「ここで待っててくれ」光希はシートベルトを外した。
「手を貸してくる」
彼女が離婚して以来、家の電球が切れれば平野光希、水漏れすれば平野光希、幼稚園の工作でさえ平野光希だ。
いつだって彼は、呼ばれればすぐに駆けつける。
「光希!」私は信じられない思いで彼を見た。
「これから私の出産で病院へ行くところなのよ! 今だって痛いのに!」
「わかってる。でも美由があの大雨の中、あんな大荷物で子供まで連れてるんだ。一人じゃとても運べないだろ? 見ちゃった以上、知らんぷりはできない。十分で戻る」
「他にいないの? 彼女はここの住人なんだから、先に子供を送ってから二回に分けて荷物を運べばいいじゃない。それか近所の人に頼むとか。どうしてあなたじゃなきゃダメなの?」
光希はついに振り返り、失望を露わにした目で私を見た。
「サラー、彼女はシングルマザーなんだぞ。君ももうすぐ人の親になるんだ、少しは思いやりを持てないのか?」
反論する間もなく、窓が軽くコンコンと叩かれた。
いつの間にか小崎美由がそばに来ていた。
「光希、よかった。ちょっと手伝って……あら、サラーさんも? 二人とも……病院へ? ごめんなさい、急用だなんて知らなくて。わかってたら絶対に声なんてかけなかったわ」
彼女はそう言って、抱えていた牛乳の箱を持ち上げ直した。その拍子に、重さで赤く食い込んだ手首が袖から覗く。
「光希、早くサラーさんを連れて行ってあげて」
「いい、俺が運ぶ。すぐ済むから」平野光希はドアを開けて車を降り、私を一瞥した。
「車の中で待ってろ」
ガチャリ。中控ロックが落ちる音がした。
小崎美由は私に手を振ると、子供の手を引き、もう片方の手で一番重い段ボール箱を自然な仕草で平野光希に渡した。
男一人と女と子供。三人は互いに寄り添うようにして、建物の陰へと消えていった。
世界が静まり返り、雨粒がルーフを叩く鈍い音だけが残された。
その時、腹部が激しく収縮し、痛みが走ると同時に、股間から温かい液体がどっと溢れ出した。
私は震える手でスマホを取り出し、平野光希に電話をかける。
「光希! 助けて! 破水したの!」受話口に向かって泣き叫んだ。
「早く戻って! 痛い!」
電話の向こうから聞こえてきたのは、小崎美由の声だった。
「サラーさん、落ち着いて。その叫び声を聞く限り、生まれるのはまだ先よ。本当に産む時って、痛くて声も出ないものなんだから」
「黙って! 電話を光希に代わってよ!」私は悲鳴を上げた。
小崎美由が優しく諭すように言う。
「妊婦さんはホルモンの影響で、情緒不安定になりやすいから」
「サラー」平野光希の声には、押し殺した怒りが滲んでいた。
「一体何をごねてるんだ。荷物を運ぶだけだと言っただろ。十分で戻る」
「嘘じゃない……本当に破水したの……」
プツッ。電話が切れた。
もう一度、光希にかける。切断。再度かける。電源が切られている。
「ああっ――」激痛に惨めな叫び声が漏れた。
ここで死ぬわけにはいかない。私の子供を、こんなところで死なせるわけには。
冷や汗にまみれた震える指で救急車を呼び、泣きながら状況を伝えた。
車から出るように指示されたが、車はすでに光希によってロックされている。
そうだ、トランクに緊急脱出用のレバーがあるはず……。
身を引き裂くような激痛に耐え、シートベルトを外すと、必死にトランクの方へと体を捻じり、這っていった。
動くたびに、下腹部を電気ドリルで抉られるような痛みが走る。
羊水がズボンをぐっしょりと濡らし、冷たく張り付いてくる。
「どこ……どこなの……」暗闇の中を無我夢中でまさぐり、工具箱で指を切ったが、ついにレバーに指が触れた。
バン!
トランクの蓋がわずかに開く。
私は無様にトランクから転がり落ち、泥水だらけの地面に激しく体を打ち付けた。
冷たい雨水と、生温かく生臭い羊水が混じり合い、太腿を伝って流れ出し、体の下の水溜まりを赤く染めていく。
意識が暗闇に沈む直前、救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえた気がした。
……
「ご家族は?」酸素マスクをつけられながら、看護師が焦った様子で叫んでいた。
「奥さん、すぐに旦那さんに連絡しないと! 番号は?」
震える手で画面をスワイプし、発信したが、誰も出ない。
その直後、SNSの通知がポップアップした。
小崎美由のストーリーだ。
魔が差したのか、私はそれをタップしてしまった。
画面に映ったのは数秒の動画。平野光希がソファに座ってくつろいでいる。その後ろに立つ小崎美由が、タオルで優しく彼の濡れた髪を拭いていた。
動画から小崎美由の甘ったるい笑い声が響く。『本当にバカなんだから。私のためにこんなに濡れちゃって。でも、あなたがいてくれてよかった』
その瞬間、巨大な悲しみが押し寄せ、息ができなくなった。
私は彼への連絡を諦めた。
そして、私たちの結婚生活も諦めることに決めた。
「家族はいません……」私は泣きながら首を振った。涙がこめかみの冷たい濡れ髪に伝う。
「私が自分で、サインします」声は、絶望で枯れていた。
