第4章
いったい、この車を降りる必要なんてあるのだろうか。
私は努めて冷静に、運転手へそのまま進むよう告げた。タクシーは緩やかに交差点を離れ、あの光景を背後へと置き去りにしていく。
人気のない家に帰り着くと、私は機械仕掛けの人形のように荷物をまとめ、娘にミルクを与え、オムツを替えた。
そうして夜まで忙しく動き回り、ようやく一息つく時間が訪れる。
そこへ、平野光希が帰ってきた。
彼は不機嫌さを隠そうともせず寝室へ踏み込んでくると、私に向かって言い放つ。
「サラー、病院で待ってろと言っただろう。なんで勝手に戻ってきたんだ?」
「待ってろって? あなたが小崎美由との買い物を終えるのを? それとも、あのカードを限度額まで使い切るのを待っていればよかったのかしら」
平野光希は瞬時に言葉を詰まらせた。その表情が、怒りから気まずさへと変わっていく。
「……見ていたのか? あれは、空くんの退院祝いだ。雨宮サラー、そうやって邪推するのはやめろ」
私は彼の弁解を遮り、寝室のドアを指差した。
「医者からは安静にするよう言われているの。たいした用がないなら、出て行ってちょうだい」
平野光希もさすがに分が悪いと感じたのか、少しだけ口調を和らげた。
「そう寝てばかりいないで、着替えてくれ。美由さんがどうしても俺たち一家に夕食を奢りたいと言っているんだ。ここ数日手伝ったお礼と、君の退院祝いも兼ねてな。君にも絶対に来てほしいと頼まれたんだよ」
会場に選ばれたのは、高級イタリアンレストランだった。
席に着くや否や、平野光希はメニューを手に取り、慣れた様子で仕切り始めた。
「空くんはカルボナーラが好きだったな。美由さんは辛いものが苦手だから、シーフードリゾットにしよう。それとナポリ風ピッツァも追加で……」
注文されたのは、すべて彼らの好物ばかり。
私への配慮など、欠片もなかった。
料理が運ばれてきても、平野光希の意識は向かいの席に釘付けだった。
自分で食べるのを嫌がってぐずる空くんのために、彼は甲斐甲斐しくパスタをフォークに巻きつけ、フーフーと息を吹きかけて冷ましてから、子供の口へと運んでやる。
一方、私の腕の中では、騒がしい環境に怯えた娘が不安げに身をよじっていた。私は窮屈な座席で片手いっぱいに娘を抱え、背中をトントンと優しく叩いてあやすことしかできない。
ようやく娘を寝かしつけ、顔を上げて食事にありつこうとした時、テーブルの上の皿はすでに大半が空になっていた。
強烈な空腹感に、胃がキリキリと悲鳴を上げる。
私はウェイターを手招きした。
「すみません、マッシュルームスープとラザニアを追加でお願いします」
「雨宮サラー!」
平野光希は眉を寄せ、信じられないという目で私を見た。
「あれだけ食べておいて、まだ追加するのか? 美由さんの好意でご馳走になっているのに、あまりに無礼だろう。意地汚い真似はやめてくれないか」
「私はまだ……」
『ドォン!』
轟音が、私の言葉を断ち切った。
立て続けにガラスの砕け散る音、そして人々の悲鳴が響き渡る。
「強盗だ! 全員伏せろ!」
銃を手にした覆面の男たちが数人、レストランになだれ込んできた。店内は瞬く間にパニックに陥り、逃げ惑う人々が押し合いへし合いする。
その刹那、私は信じがたい光景を目の当たりにした。
平野光希が一切の迷いもなく、小崎美由と空くんをその腕に死守するように抱きかかえ、ゆっくりと安全な場所へ後退していったのだ。
取り残された私は、娘を抱きしめたまま人波に揉まれ、犯人たちの視界に晒される位置へと押し出されてしまう。
平野光希は、ただの一度も振り返らなかった。
平野光希のためになんて二度と泣かないと誓っていたはずなのに。その瞬間、私の瞳から零れ落ちた涙が、娘の頬を濡らした。
パトカーのサイレンが近づき、警察隊が突入する。
「もう大丈夫だ、大丈夫だ」
平野光希は小崎美由の髪を何度も撫でながら、掠れた声で繰り返した。
「現場は警察が制圧したから」
小崎美由と空、その親子の無事を確信するまで張り詰めていた神経が、ようやく緩み始める。
その時になって、ある思考が遅れて彼の脳裏をよぎった。
——雨宮サラーは?
彼は弾かれたように立ち上がり、混乱する周囲を見回した。
「旦那さん、勝手に動かないでください」
一人の警官が彼を制止する。
「妻が……妻と子供も中にいたんです!」
平野光希の声に焦りが滲んだ。
「ベージュのコートを着て、生まれたばかりの赤ん坊を抱いているはずなんだ!」
警官は手元の記録ボードに目を走らせた。
「ああ、その女性なら。乳児連れということで、第一陣の避難リストに入っています。救急隊員がチェックしましたが母子ともに怪我はなく、十分ほど前に送迎車で自宅へ送り届けましたよ」
平野光希は長く息を吐き出し、胸を撫で下ろした。
「無事だったか、よかった……」
彼はそう呟くと、未だに泣きじゃくる小崎美由へと視線を戻す。
彼はスマートフォンを取り出し、雨宮サラーへメッセージを送信した。
『警察から先に帰宅したと聞いた、よかった。美由さんも空くんもかなりショックを受けていて、空くんが泣き止まないんだ。二人を落ち着かせてから帰るから、今夜は遅くなるかもしれない。待たずに先、寝ててくれ』
翌朝の八時。
平野光希は全身に疲労を引きずりながら帰宅した。ドアを開けると、室内は恐ろしいほどに静まり返っている。
「サラー?」
声をかけてみるが、返答はない。
「まだ寝てるのか……?」
彼は靴を脱ぎ、足音を忍ばせて寝室へと向かった。
「娘はもう起きてるかな」
寝室は、もぬけの殻だった。
雨宮サラーも、娘の姿もどこにもない。
平野光希は家中を探し回ったが、見つかったのは一通の離婚届と、外された結婚指輪のダイヤモンドだけだった。
彼の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。巨大な絶望とパニックが彼を飲み込んでいった。
雨宮サラーが、俺と離婚するだって?
