第2章
怜真がケーキを届けさせたのは、人手が欲しかったからではない。見せつけたかったのだ。
成瀬白子が、自分の隣に立つ姿を。
下りエレベーターのデジタル表示を見つめながら、紗季の脳裏には先ほどの光景が焼き付いていた。
白子のキャミソールワンピース。肩からずり落ちそうなほど緩んだストラップ。怜真のデスクに凭れかかり、まるでそこが自分の特等席だと言わんばかりに笑う姿。
そして、白子に向けられた怜真の眼差し――。
いや、思い出したくない。
ビルの外に出ると、東京の夜空から唐突に雨が降り注いできた。
傘を開くと、雨粒が重い音を立てて叩きつける。
ふと、七年前の記憶が蘇る。礼文島の、あの朽ちかけた小屋。
部屋の隅で小さく丸まり、高熱で痙攣していた白子。泥酔した父親が、娘を叩き出そうと怒鳴り散らしていた。
紗季が飛び込んだ時、白子の体温は四十度を超え、唇は紫色に変色し、いつショック状態に陥ってもおかしくなかった。
「お願い、助けて……」
白子は紗季の手を掴んだ。爪が肉に食い込むほどの力で。
紗季は彼女を抱き上げ、診療所へと走った。
あの晩、点滴をし、体を冷やし、一晩中付き添った。
夜明けと共に目を覚ました白子は、涙で顔をぐしゃぐしゃにして言った。
「お姉ちゃん、連れて行って。もうここにはいたくない……」
紗季は絆された。
白子を東京に連れ帰り、部屋を借り、学費を出し、毎月欠かさず生活費を送った。
白子は素直で、甘え上手で、感謝の言葉を忘れず、記念日には可愛いスタンプを送ってくるような子だった。
一人の子供を救ったつもりだった。
だが今、ようやく理解した。
自分が手塩にかけて育てたのは――恋敵だったのだと。
自宅に辿り着いたのは深夜零時。
靴を履き替える気力もなく、紗季はソファに倒れ込んだ。
七時間立ちっ放しの手術に加え、雨の中を三十分も歩いたせいで、足の感覚は麻痺してなくなっていた。
不意にスマホが震えた。
画面に表示された名前は――怜真。
心臓が大きく跳ねる。
弁解だろうか? それとも謝罪?
通話ボタンを押し、口を開こうとした瞬間、受話口から白子の甘ったるい声が響いた。
「怜真くん、そこはダメぇ……」
紗季の全身の血液が凍りつく。
続いて聞こえてきたのは――。
軋むベッドの音。
濡れた口づけの水音。
白子の抑えきれない喘ぎ声。
そして、聞いたこともないほど優しい、怜真の低く掠れた声。
「白子、じっとしてろ……」
「紗季みたいな女に、何が分かる……」
「お前こそが、俺に相応しいんだ……」
スマホを握る紗季の手が震える。
受話器の向こうから、白子の忍び笑いが漏れてきた。わざとらしく声を潜めているが、紗季には十分すぎるほど鮮明に聞こえた。
「……気に入った?」
「あ、そうそう。ケーキありがとぉ。イチゴ味、すっごく甘かったぁ」
通話が切れた。
暗いリビングで、紗季は石のように固まっていた。スマホが手から滑り落ち、床で鈍い音を立てる。
泣きたいのに、涙一滴こぼれない。
喉が詰まり、息ができない。
その時だった。腹部に、引き裂かれるような激痛が走った――。
まるでナイフで腹の中を掻き回されているようだ。
見下ろすと、太腿を伝って鮮血が流れ落ち、床にどす黒い染みを作っていく。
瞬間、意識が覚醒した。
先週の検診で医師に言われていたのだ。子宮外妊娠の兆候がある、要経過観察だと。
だが忙しすぎて、手術を受ける時間さえ作れなかった。
今、その報いが来たのだ。
紗季は歯を食いしばって立ち上がった。一歩動くたびに激痛が走り、冷や汗が噴き出す。
救急車を呼ぼうとスマホに手を伸ばすが、画面は無残に砕け散っていた。
構わない。
病院は二つ先の通りだ。
歩ける。
歩かなければ。
壁に手をつき、一歩ずつ玄関へと滲り寄る。
視界が霞み、耳鳴りが轟音のように響く。
ドアを開けた瞬間、廊下の照明が白く眩しくて目が開けられない。
ふらつく足取りで階段へ向かうが、一段一段がまるで険しい山のようだ。
血は止まらない。
痛みも消えない。
薄れゆく意識の中、紗季の目の前に白子の顔が浮かんだ――。
かつてあんなにも愛おしく思った顔。
それが今、夫に向かって花が咲いたように笑いかけている。
『お姉ちゃん、怜真さんをこんなに立派にしてくれて、ありがとう……』
白子の声が耳元で反響する。
紗季はついに支えを失い、バランスを崩して冷たい階段へと崩れ落ちた。
最後に残された意識の欠片で、彼女は思った――。
もしも時間を巻き戻せるなら、私はまたあの雨の夜、礼文島のボロ小屋へ駆け込むだろうか?
泣いて助けを乞うあの少女を、救い出すだろうか?
答えは――。
二度と、しない。
