第3章

紗季が目を覚ますと、鼻をつくのは消毒液の臭いだけだった。身じろぎしようとしたが、腹部に走る裂けるような激痛に阻まれる。

「気が付いた?」

同僚である看護師長がベッドサイドに立っていた。その瞳には複雑な色が浮かんでいる。

「子宮外妊娠による破裂よ。本当に危ないところだった」

紗季は乾いた唇を開き、掠れた声で告げた。

「怜真には、言わないで」

看護師長は呆気にとられた様子だ。

「白石先生、あなたって人は……」

「彼は忙しいの」

紗季は言葉を遮り、虚ろな目を天井に向けた。

「迷惑をかけたくないから」

口には出さなかったが、伝えたところできっと何の反応もないだろうということは分かっていた。どうせ怜真は今頃、白子と一緒にいるのだから。

看護師長は何か言いたげだったが、最後には深く溜息をついただけだった。

病室は恐ろしいほど静まり返っている。点滴の管をゆっくりと落ちていく薬液を見つめながら、紗季の頭の中は真っ白だった。

自分はあの冷たい階段で死にかけていたというのに。

夫は、別の女のベッドにいる。

突如、携帯が震えた。怜真からではない。療養所からだ。

「白石さん、お祖母様の容態が芳しくありません。心不全の数値が急激に悪化しています。すぐに来ていただけませんか」

紗季は目を閉じ、世界が音を立てて崩れ落ちるのを感じた。

「すぐに行きます」

看護師長が慌てて制止する。

「今動いちゃ駄目! まだ絶対安静よ!」

「行かなくちゃ」

紗季はベッドの柵を握りしめて立ち上がった。動くたびに、腹部の傷口が引き攣れる。

「お祖母ちゃんには、私しかいないの」

かつて、自分にお祖母ちゃんしかいなかったように。

タクシーは東京の街を疾走する。紗季は指が白くなるほど強く携帯を握りしめていた。

療養所は郊外にあり、車で一時間以上かかる。

車窓を飛ぶように過ぎ去る景色を眺めながら、脳裏に若き日の祖母の姿が浮かんだ——

両親を交通事故で亡くした後、祖母は女手一つで紗季を育ててくれた。学費を稼ぐために三つの仕事を掛け持ちし、その手はいつもあかぎれと傷だらけだった。

『紗季はしっかり勉強して、将来はお医者さんになるんだよ。そして、たくさんの人を助けるの』

祖母はいつもそう言っていた。

その言葉通りになった。

けれど、どれほど多くの他人を救えても、たった一人の祖母を、そして自分自身さえも、救うことはできなかった。

療養所の長い廊下。一歩踏み出すたびに激痛が走り、冷や汗が噴き出す。

病室のドアを開けた瞬間、ベッドに横たわる祖母の弱り切った姿が目に飛び込んできた。酸素マスクが顔の大半を覆い、心電図モニターが規則的な電子音を刻んでいる。

「お祖母ちゃん……」

紗季の声が詰まる。

祖母は辛そうに首を巡らせ、濁った瞳に痛ましげな光を宿した。

「紗季……どうしてそんなに、痩せているの……」

紗季は祖母の氷のように冷たい手を握り、無理やり笑みを作った。

「大丈夫、まだ頑張れるから」

祖母の指先が紗季の手の甲を優しく撫で、不意に問いかけた。

「怜真さんは?」

紗季の笑顔が凍りつく。

「彼は……仕事が忙しくて」

祖母は長いこと孫娘を見つめていたが、やがてその目から涙が溢れ出した。

「紗季、お祖母ちゃんはもう歳だけど、何でもお見通しだよ……」

「辛いんだね、そうだろう?」

紗季の涙腺が決壊した。

ベッドの縁に縋りつき、肩を震わせて泣きじゃくる。

「お祖母ちゃん、私、疲れた……」

「もう本当に、疲れたの……」

祖母は力を振り絞って手を上げ、紗季の髪を撫でた。その声は弱々しいが、確固たる響きがあった。

「なら、もう頑張らなくていい」

「お祖母ちゃんがこの人生で一番後悔しているのは、お前に教えてあげられなかったことだ——」

「自分を大切にする方法を」

病院へ戻る途中、科長から電話が入った。

「白石」

科長の声は言いにくそうだ。

「君の旦那さんが、若い女性と高級レストランに出入りしているのを見た者がいてね」

携帯を握る紗季の手が震えた。

「それに、その相手は君が学費を支援していた子だという噂も……」

科長は溜息をつく。

「白石、自分を大事にしなさい。何かあったら私たちに相談するんだ、一人で抱え込むんじゃないぞ」

電話が切れると、紗季はタクシーの後部座席で呆然と座り込んだ。

窓の外には東京の煌びやかな夜景が広がり、ネオンが明滅し、車の流れが織物のように続いている。

この街はこんなにも広いのに、私の居場所はどこにもない。

救った人間に裏切られ。

愛した人間に踏みにじられ。

必死に守ってきたすべてが、音を立てて崩れていく。

また携帯が鳴った。今度は怜真だ。

画面に踊る名前を見つめ、紗季は結局、通話ボタンを押してしまった。

「紗季、明日はビジネスの会食に付き合え」

怜真の口調は、それが当然だと言わんばかりだ。

「あの黒いドレスを着てこい。遅刻するなよ」

挨拶も、気遣いもなく、ここ数日どこにいたかさえ尋ねない。

「怜真」

自分の声が、恐ろしいほど冷静に響くのを聞いた。

「私、子宮外妊娠が破裂して、死にかけたの」

電話の向こうで数秒の沈黙があった。

やがて、怜真は言った。

「で、今は無事なんだろう?」

「明日の夜七時だ。忘れるな」

ツーツー——

電話が切れた。

紗季は携帯の画面を見つめ、ふと笑みを漏らした。

乾いた笑いはやがて嗚咽に変わり、また涙がこぼれ落ちた。

病室に戻ると、看護師長がカルテを整理していた。

紗季の蒼白な顔色を見て、彼女はたまらず口を開く。

「白石先生、どうしてそこまで自分を犠牲にするの?」

紗季は答えず、ただベッドに横たわった。

窓から差し込む月光は冷たく、まるで薄い霜のように彼女の顔を覆っている。

祖母の言葉が蘇る——

『なら、もう頑張らなくていい』

けれど、頑張らないわけにはいかない。

祖母の医療費は毎月百万円。すべて怜真に頼っている。

私が離れれば、祖母はどうなる?

紗季は目を閉じ、全身が凍えるような寒さを感じた。

廊下からは医療スタッフの足音が聞こえる。

誰かが蘇生措置を行い、誰かが泣き叫び、誰かが祈っている。

この病院では毎日、生と死の別れが繰り返されている。

そして私の人生もまた、少しずつ死に向かっているようだ。

不意に携帯の画面が明るくなった。Twitterの通知だ。

一枚の写真が流れてくる——

ミシュランレストランの入り口に立つ怜真と白子。白子は彼に腕を絡ませ、輝くような笑顔を浮かべている。

『桐島社長の新恋人、超若い~』というコメントと共に、「いいね」とリプライが並ぶ。

紗季はその写真を凝視し、指先に力を込めた。

白子が身に纏っているのは、紗季が決して選ばないようなデザイン——シャンパンゴールドのオフショルダードレス。腰にはリボンが結ばれ、髪は丁寧にセットされている。

そして、白子を見る怜真の眼差し——

まるで宝物を見るかのように優しい。

あの眼差しを、彼もかつては私に向けてくれていた。

ずっと、ずっと昔のことだ。

紗季はその通知を削除し、電源を切ると、布団の中で小さく丸まった。

窓の外の東京は、相変わらず華やかだ。

一方、この冷たい病室に横たわる彼女は、まるで生ける屍のようだった。

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