第1章

 娘のソフィアが眠れないと言って、私の寝室へやってきた。

「ママ、パパはどうして最近帰ってこないの?」

 ソフィアの小さな手が、私の寝間着をぎゅっと握りしめる。その声は心細げに震えており、幼い彼女の困惑が痛いほど伝わってきた。

 彼女の父親が毎日、別の女の元へ通っている――そんな残酷な事実を、どうしてこの子に説明できようか。

 私は娘を抱き寄せ、瞳の奥に宿る冷ややかな光を隠して、優しく嘘を吐く。

「パパはお仕事、頑張っているのよ」

「ほんとう? もうすぐクリスマスだけど、パパも一緒に過ごせる?」

「ええ、もちろんよ」

 私は彼女の巻き毛を撫で、とびきり優しい声で慰める。

「さあ、目を閉じて。もうお休みなさい」

 ソフィアはパチパチと瞬きを数回繰り返したが、最後には私の言葉を信じることにしたようだ。

 やがて腕の中で、娘の寝息がすうすうと規則正しくなり、服を掴んでいた手の力も抜けていった。

 熟睡する娘の顔を見つめながら、胸の奥から苦いものが込み上げてくるのを感じた。

 九年前、私は父や兄の猛反対を押し切り、シチリア最強のマフィア一家の跡取りという地位を捨てた。すべては、マルクとこの街へ駆け落ちするためだった。

 自由と真実の愛へ向かっているのだと信じていた。彼は私と共に白髪になるまで愛し続け、絶対に裏切らないと信じていたのだ。

 なんと滑稽なことだろう。たった九年で、そのお伽話は粉々に砕け散ってしまった。

 どうやってソフィアを連れて誰にも気づかれずにこの街を去るか――脳内で算段を巡らせていると、寝室のドアが開いた。

 マルクが入ってきた。全身に疲労を纏っている。

 ベッドの上のソフィアに気づくと、彼の一瞬だけ表情が和らぎ、娘の額に口づけようと身を屈めた。

 ベッドサイドの薄暗い明かりの下でも、はっきりと見て取れた。

 彼のシャツの襟元に付着した、あの目障りな口紅の跡――あれはクローディアが愛用している色だ。

 捲り上げられた袖口から覗く腕には、真新しい爪痕が数本、生々しく刻まれている。

 胃の腑が引っくり返るような感覚。私は込み上げる吐き気を必死に抑え込んだ。

 私は本能的に手を挙げ、彼を制した。

「触らないで。この子、風邪気味なの」

 口調が硬すぎただろうか。私はすぐに言葉を継いだ。

「やっと寝かしつけたところだから、起こさないで」

「風邪だって?」

 マルクは眉を寄せ、瞳に心配の色を浮かべる。

「メイドたちの管理が行き届いていないんだな。明日、きつく言い聞かせておく」

 彼は私の異変に気づく様子もなく、今度は私に口づけようとしてきた。

 私は嫌悪感を露わにして顔を背け、キスを空振りに終わらせる。

「あなたの匂い、気分が悪くなるわ」

 マルクの体が明らかに強張った。彼はゆっくりとベッドの端に腰を下ろし、疲労と罪悪感の滲む声で言った。

「すまない、エリンナ。最近君を放っておいたことはわかってる。だが、知っての通りだ。先代のゴッドファーザーが亡くなって、情勢は複雑なんだ。クローディアは重要な人脈と資源を握っている。俺は……どうしても、彼女の協力を取り付けなきゃならないんだ」

 クローディアは先代の妻だ。三十歳で老いたボスに嫁ぎ、その卓越した手腕と魅力で、瞬く間に組織内で独自の勢力を築き上げた女。先代が死んだ今、彼女の手にある切り札は誰もが喉から手が出るほど欲しがるものとなっている。

 新任のゴッドファーザーであるマルクもまた、その切り札を狙っているのだ。

 彼は顔を上げた。

「信じてくれ。権力を掌握して地位を固めたら、すぐに君を正式に妻にする。盛大な結婚式を挙げて、君こそが俺の妻だと街中の人間に知らしめてやるさ」

 私は彼を見つめながら、皮肉な笑いが込み上げるのを堪えた。

 彼にはわかっていない。私が既に真実を知っていることを。

 先代の遺産と縄張りを継承するためには、後継者は未亡人を娶らねばならない。つまりマルクは、クローディアを娶り、彼女を再び「ゴッドマザー」の座に就かせなければならないのだ。

「シャワーを浴びてきて」

 私は目を閉じ、彼の虚飾に満ちた演技を拒絶する。

「疲れたの」

 二十分後。マルクが浴室から出てきたタイミングで、ドアがノックされた。

 クローディアの家の執事だ。その声には焦りが滲んでいた。

「旦那様、クローディア奥様が不眠と動悸が酷いと仰せで……こちらへ来ていただけないかと」

 マルクは髪を拭く手を止め、苛立ち紛れに口走った。

「クソッ、さっき散々抱いて寝かせてやったってのに、ま――」

 言いかけて、彼は猛然と口をつぐんだ。

 空気が瞬時に凍りつく。

 彼は恐怖に引きつった顔で、ベッドを振り返った。

 私は彼に背を向け、深く穏やかな呼吸を繰り返していた。とっくに夢の中にいるかのように。

 彼は五秒ほど私を凝視し、反応がないことを確認すると、長く息を吐き出した。忍び足で服を着ると、ドア越しに低く告げる。

「すぐ行く」

 カチャリ、とドアが閉まる音がした。

 闇の中で、私はカッとに目を見開いた。

 もう十分だ。すべてを終わらせる時が来た。

 私はソフィアを連れて、絶対にここから逃げ出す。

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