第3章
由美視点
プライベートジェットが夜空を切り裂いていく。窓の外は、闇と、眼下に広がる遠い街の灯りだけ。私は革張りのシートに座り、膝を強く握りしめている。指の関節が白くなるほどに。
向かいの席には亮が座り、タブレットに視線を落としている。けれど数分おきに、その視線がちらりとこちらに向けられる。
機内はエンジンの低い唸りを除けば静寂に包まれている。空気が重く感じられた。
三週間の逃亡。それが、あっけなく終わった。彼に見つかってしまった。今、私は白峰市に連れ戻されている。その先には何が? 本当の『妻の務め』? それが何を意味するのか、私には見当もつかない。
一筋の涙が頬を伝う。彼に見られていないことを願い、私は素早く窓の方を向いた。
「泣くな.......」
凍りつく。目の前に、白いハンカチが差し出された。
一瞬それを見つめてから、受け取る。柔らかい生地からは、彼のコロンの香りが微かにした。
「私に……強制するつもりなの」声が震える。最後まで言い終えることができなかった。
亮は窓の外に目をやる。「強制はしない、由美」
顔を上げる。「でも、あなたは言ったわ……妻の務めって……」
彼は向き直り、私の目を見つめる。「契約はまだ十八ヶ月残っている。ただ、そばにいてほしい。もう一度、やり直すチャンスが欲しいんだ」
ハンカチを強く握りしめる。彼の顎のラインがこわばっている。その言葉を口にするのが、彼にとって何かを犠牲にするかのようだった。
機体が乱気流で揺れた。思わず手が伸び、肘掛けを掴む。
亮はタブレットに注意を戻した。私は膝の上のハンカチに視線を落とす。顔が熱い。けれど、張り詰めていた空気は変わっていた。敵意ではなく、どこか穏やかなものに。
黒のセダンが桜原丘のタウンハウスの前に停まる。白峰市は南星市より寒い。私はコートの前をきつく合わせた。
家中の明かりが灯っている。ドアがさっと開いた。玄関に蒼井さんが立っていて、その目を輝かせている。
「奥様! お帰りなさいませ! ああ、よかった!」声が震えている。彼女の目は赤く縁どられていた。
玄関先に立ち尽くす私に、かける言葉が見つからない。
亮がトランクから私のスーツケースを引き出す。三週間前に私が持ち出した、あのスーツケースだ。蒼井さんがそれを受け取り、私たち二人を交互に見やる。
「部屋へ案内する」亮の声は素っ気なかった。
彼はスーツケースを運び、階段を上がっていく。私はその後ろについていった。
以前の客間ではない。彼は主寝室の隣にあるドアの前で足を止め、それを開けた。
スイートルームだった。前の部屋よりずっと広い。専用のバスルーム。ウォークインクローゼット。小さなバルコニーまである。
亮はベッドのそばにスーツケースを置く。「何か必要なら、蒼井さんに言え」
彼は背を向けて部屋を出ていこうとする。
「どうしてこの部屋に?」止めようと思う前に、言葉が口をついて出た。
彼は立ち止まる。振り返りもしない。「その方が、近いからだ」
そして彼は行ってしまった。ドアがカチリと閉まる音がした。
十分後、蒼井さんがカモミールティーを運んできてくれた。そして私の荷解きを手伝い始める。
「奥様、この三週間、亮様がどれほどご心配なさっていたか、ご存じないでしょう」
何気ないふうを装って尋ねる。「そうなのですか?」
「ほとんどお休みになっていませんでした。眠っても一晩に三時間、それもどうかというくらいで。秘書の方がおっしゃるには、会議中に居眠りなさったことも、一度や二度ではなかったとか」
彼女はセーターを引き出しにしまい、それから私の方を振り返って見つめた。
「この家に仕えて十五年になりますが、あのような亮様は初めて拝見しました」
シャツを掴んだまま、私の手が空中で凍りついた。
朝八時半。二十六日目。家はもう空っぽだと思っていたのに、階段を降りると亮がダイニングテーブルに座っていた。
彼の隣にはパンフレットの束が置かれている。
「水曜にカップルヨガのクラスを予約した」彼はパンフレットを一枚、こちらに滑らせる。「ストレス解消にいいらしい」
コーヒーを噴き出しそうになる。「何ですって?」
彼はこちらを、まるで私の方がおかしいとでも言うように見ている。「ヨガを習いたいと言っていただろう。三年前だ。『穏やかそう』だと」
三年前? そんなことを言った覚えさえないのに。
「そんなこと、覚えていたの?」声が震える。
彼はコーヒーを一口飲む。「君が言うことは、大抵覚えている」
彼は立ち上がり、ブリーフケースを手に取る。「七時までには戻る。遅くなっても待たなくていい」
二十七日目。夜七時半。キッチンから物音が聞こえる。ドアを押し開けて、私はその場で固まった。
亮がエプロンを着けている。ダークグレーの、明らかに新品だ。彼の隣にはタブレットが立てかけられ、料理のチュートリアル動画が再生されている。
まな板の上の玉ねぎは悲惨な状態だ。不揃いな塊がそこら中に散らばっている。
「料理してるの?」思わず笑ってしまった。
「イタリアンリゾットだ。動画によると、絶えずかき混ぜないといけないらしい」彼は顔も上げない。
袖は肘までまくり上げられている。額には汗が玉のように浮かんでいた。
「手伝おうか?」
彼は顔を上げる。その目には、どこか助けを求めるような色が浮かんでいた。「砂糖と塩を間違えたかもしれない」
歩み寄ってリゾットを味見する。
「間違いなく塩ね。それも、かなりの量」今度は声に出して笑ってしまった。
彼は木べらを置く。「出前でも頼むか?」
「ええ、そうしましょう」
私たちは顔を見合わせて笑う。彼がこんなふうに人間らしいところを見せるなんて、この三年で初めてのことだった。
二十九日目。亮が私を白桜県までドライブに連れて行ってくれた。二人とも新鮮な空気が必要だ、と彼は言った。
私たちは街を後にする。金色とオレンジ色に染まった木々が、窓の外を流れていく。
農園は親切な老婦人が営んでいて、私たち一人ひとりに籠を渡してくれた。
「きれいな……」私はりんごの木々を見つめる。
フランネルのシャツにジーンズ、髪はポニーテールにまとめている。ここ数週間で一番、心が軽い気がした。
高い枝になっている大きなりんごに手を伸ばす。けれど、あと少し届かない。
「これか?」すぐ後ろから亮の声がした。彼は軽々と手を伸ばし、枝からそれを摘み取った。
彼の体の温もりが伝わってくる。
「小さい頃、果樹園を持つのが夢だったの」私の声は小さい。
彼は手を止める。「どうして?」
唇を噛む。目の奥が熱くなってきた。「そうすれば、お腹が空く心配をしなくていいから。トムとリンダは果物を買ってくれなかった。高すぎるって。一度、隣の家の木からりんごを盗んで、ひどく殴られたのを覚えてる」
沈黙。言ってしまったことを後悔する。
亮はぴたりと動きを止めた。彼の顎が食いしばられる。
彼は何も言わない。ただ、自分の籠の中から一番大きくて、一番赤いいくつかのりんごを選び出し、私の籠に入れた。
「これからは、好きなだけりんごを食べればいい」
涙がこぼれ落ちそうになる。私は顔を背け、りんご狩りに集中するふりをした。
どうしてこんなに優しいの? そのせいで、何もかもが難しくなるのに。
日没までに、私たちの籠は二つともいっぱいになった。亮がそれをトランクに積み込む。
「今週末はアップルパイを作ろう」
「パイの作り方、知ってるの?」
彼は真剣な顔つきだ。「いや。だが、チュートリアルがある」
私は笑った。本当に、心から。
三十日目。夜八時。ダイニングテーブルにはキャンドルが灯っている。亮は今回、本当に成功させた。ステーキは完璧な焼き加減。赤ワインもある。
雰囲気がロマンチックすぎる。緊張してしまう。
知らなくては。梨乃のことについて、聞かなくては。
ナイフとフォークを置く。「あの日、あなたのオフィスで、電話を盗み聞きしてしまって……」
亮はステーキを切る手を止め、顔を上げた。
「レストランを予約して、白い薔薇を注文してた。あれは、梨乃さんのためだったんでしょう?」
彼は一瞬私を見つめてから、笑った。
意地悪な笑みではない。ただ、当惑したような笑みだった。
「実はね、あれは、君のためだ」
「え?」
彼はカトラリーを置く。「由美。君が初めて桜原丘の家に来た時、庭で立ち止まった。白い薔薇を見て、五分近くもじっと見つめていた。そして言ったんだ。『きれいですね』と」
目の奥がじんわりと熱くなる。「三年前のことよ。そんなの、覚えてもいない……」
「俺は覚えている」
「でも、梨乃さんが……」声が途切れる。「インスタグラムに投稿してた。『置き忘れたものを取りに戻る』って。あなたをタグ付けして……」
亮は眉をひそめ、まるで初耳だというように携帯を取り出した。しばらく画面をスクロールしている。
「梨乃は、三年前、祖父が俺に結婚させようとした相手だ。会ったのは二回。たった二回だ。電話番号さえ保存していない」
彼は携帯をテーブルの上に放り投げた。
「彼女が戻ってこようが、蒼海市にいようが、俺の知ったことじゃない」
涙がこぼれ落ちる。三週間の痛み、誤解、恐怖、そのすべてが一気に込み上げてきた。
「私はてっきり、私を消すためにあのお金をくれたんだと思ってた。彼女が戻ってきたから、一緒になりたかったんだと……」
彼は立ち上がり、私のそばに歩み寄る。そして私たちの目線が同じ高さになるように、膝をついた。
彼は私の手を取る。「あのお金を渡したのは、パニックになったからだ。自分が父親になるかもしれないと思って、どうしていいか分からなくなった。そしたら君は逃げ出して、俺は……」
彼は言葉を切る。
「君がいなくなった三週間、眠れなかった。集中できなかった。直哉が言うには、会議中に寝てしまったらしい。役員会は俺が正気を失ったと思っただろうな」
彼の握る力が強くなる。
「あの数週間で、あることに気づいたんだ。三年間、俺は君がいることに慣れきっていた。家に帰ると君が庭で薔薇に水をやっている姿。日曜の朝に君がソファで画集を抱えて丸くなっているのを見つけること。コーヒーを淹れる時に君がハミングすること」
彼は顔を上げる。「あの偽物のエコー写真で、俺は本当の家族が欲しいと気づかされた。君との家族が。契約だからじゃない。祖父が望むからでもない。俺の人生に、君が欲しいんだ」
「もう二度と君を失いたくない、由美」
言葉が出ない。ただ泣くことしかできない。亮は立ち上がり、私をその腕の中に引き寄せた。
本物の温もり。本物の安らぎ。
その夜、私は新しい部屋のベッドに横になっている。バルコニー越しに、庭の白い薔薇が月明かりに揺れているのが見える。
携帯が震えた。
亮 『来週末。どこかへ連れて行きたい。暖かい服を用意しておいて』
私 『どこへ?』
亮 『サプライズだ』
私は思わず微笑みながら、枕を抱きしめた。
心臓が速く脈打っている。
窓の外では、白い薔薇が夜風に優しく揺れ、まるで秘密を囁いているかのようだった。
