第3章

 港区の邸宅に戻ってからも、黒沢智はまだ私が結婚指輪を寄付した一件について怒りを露わにしていた。

 彼はネクタイを乱暴に緩めて放り出すと、黒革のソファに深く身を沈め、冷ややかな視線を私に向けた。

「清美、最近のお前の態度は目に余るぞ。俺が甘やかしすぎたせいで、自分の立場を忘れたんじゃないか?」

 私は顔も上げず、黙々と荷造りを続けていた。

「自分の分際なら、いつだって弁えているわ」

 私は振り返りもせず、畳んだコートをスーツケースに収める。

「それより貴方こそ、智さん。自分が何者だったか、覚えているの?」

 三年前の、あの雨の夜。

 あの頃の彼は財閥の当主なんかではなく、新宿の路地裏で肋骨を折られ、ゴミのようにコンビニの裏に捨てられていたただの『野良犬』だった。

 私が彼を、あの六畳一間の安アパートに拾い帰ったのだ。物価の高いこの東京で、彼の治療費を稼ぐためにバイトを三つ掛け持ちし、深夜のコンビニに立ち、怪しげな診療所で売血さえした。

 当時の彼は私を抱きしめ、火傷しそうなほど熱い涙を流して誓ったものだ。

「一生かけてお前を大切にする。もし裏切るような真似をしたら、俺は畳の上じゃ死ねない」

 その誓いはまだ耳に残っているというのに、彼という人間は、もう根元から腐りきってしまっていた。

 黒沢智は私の言葉に痛いところを突かれたのか、あるいはあの惨めな過去を思い出したのか、口調を少しだけ和らげた。

「わかった、もういい加減にしろ。腹が減ったんだ、ラーメンを作ってくれ」

 以前の彼は胃が弱く、接待で酒を飲んで帰ってくると、どんなに遅い時間でも私が麺を茹でてやったものだ。

 その時、視界の端でドット絵風のインターフェースが明滅した。

【システム警告:世界線離脱まで残り5日。宿主は情緒の安定を維持してください。】

 私は手を止め、彼に向き直ると、平坦な声で告げた。

「キッチンの棚にカップ麺があるわ。自分でお湯を沸かして食べて」

「清美!」

 黒沢智は信じられないといった表情で私を見つめた。まるで赤の他人を見るような目だ。

「胃が痛いんだぞ!」

「痛いなら薬を飲めばいいでしょう。私は家政婦でも医者でもないのよ」

 私は冷ややかに言い放った。

 黒沢智は怒りのあまり乾いた笑いを漏らした。支配者としての傲慢さが、このような拒絶を許せなかったのだろう。彼は勢いよく立ち上がると、足元のゴミ箱を激しく蹴り飛ばした。

 派手な破壊音が室内に響き渡る。

「いいだろう、上等だ。月城清美、後悔するなよ」

 彼は私に指を突きつけ、蔑むような眼差しを向けた。

「俺から離れて、こんな何不自由ない暮らしが続けられるとでも思っているのか? この国で、お前は身寄りのないただの孤児だ。戸籍だって俺が用意してやったものだろう。黒沢家を出て、誰がお前など相手にする?」

 それが、彼の自信の根拠だった。

 戸籍と生活の糧という急所さえ握っていれば、私が永遠に彼にすがりつく寄生木でい続けると思い込んでいる。

「なら、試してみればいいわ」

 私はもう彼を一瞥すらせず、寝室へと足を踏み入れ、カチャリと鍵をかけた。

 すぐにドア越しに、黒沢智が電話をかける声が聞こえてくる。私への当てつけのように、わざと大げさに声を張り上げていた。

「もしもし、結衣か? まだ起きてるか? 夜食が食べたい? ああ、わかった。今からそっちに行くよ」

 やがて玄関のドアが乱暴に閉められる音が響き、車のエンジン音が遠ざかっていった。

 以前なら、裸足のまま追いかけ、行かないでくれと、白川結衣のところへなんて行かないでくれと懇願していただろう。

 だが今は、ガランとした部屋を眺めながら、久方ぶりの静寂に安らぎすら感じていた。

 私はシステムパネルを開き、そこに浮かぶ鮮紅色のドット文字を見つめた。

【痛覚遮断システム解除中……進行度30%。】

 この世界を去るための莫大な『違約金』を用立てるため、私はシステムから贈与された『痛覚遮断』機能を担保に差し出したのだ。

 遮断機能が徐々に失効していくにつれ、胃のあたりから痙攣するような鋭い痛みが込み上げてくる。それは悲痛によるものではない。コンビニバイトに明け暮れていた時期にこの身体に刻まれた古傷であり、疲労が重なると決まって発作を起こすものだ。

 私はベッドの上で身体を丸め、手のひら一杯の鎮痛剤を水なしで飲み込んだ。それでも、口元には笑みが浮かんでいた。

 痛いほうがいい。

 痛ければ痛いほど、あの男がいかに無価値な人間か、骨の髄まで理解できるから。

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