第2章
二人は長年の友人だった。林田哲は松本彩世の願いを受け入れる。
出国の日取りを決めると、彩世はタクシーで帰宅した。道中、検査の報告書をすべてビリビリに裂き、ゴミ箱へ放り込む。
病院で処方された数種類の薬は、ビタミンの瓶に移し替えたうえで、洗面台の鏡の裏に隠した。
心も体も限界だった。港の花火なんて見たくなくて、わざと早くベッドに潜り込んだのに――それでも、夜10時。悪い夢でも見たみたいに、ぱちりと目が覚めた。
スマホを開く。案の定、同じ街の動画が流れてくる。夜空を切り裂くように咲く鮮烈な花火。息を呑むほど、美しい。
彩世は堪えきれず、新谷寒季にビデオ通話をかけた。
「……どこにいるの?」
すぐに繋がる。画面の向こう、寒季の背後は確かにオフィスだった。だが見覚えがない。彼の会社ではない。
「取引先の会社」
寒季はカメラへ笑いかけ、声を落とす。
「俺に会いたくなった?」
「うん……」
彩世は小さく頷くように答えた。
「今から帰ってきて、そばにいてくれる?」
完璧に整った横顔を見つめているうちに、彩世は気づく。彼の背後、窓の外が真っ黒な海だ。空中で花火がひとつ、ふわりと開いた。
――いま松本凛は、花火を眺めながら、彼が自分の相手を終えるのを待っているのだろう。
急に、どうでもよくなった。
「冗談」
寒季が口を開く前に、彩世は言った。
「仕事して。私、寝る」
「不機嫌だな」
寒季はすぐ察したように言う。
「片づけたらすぐ帰る。明日はデパート行ってバッグ買おう。丸一日付き合う。な?」
彩世は頬を引きつらせ、笑顔の形だけ作った。
昔なら、彼は今すぐ帰ってきた。
いまは、どれだけ甘えても松本凛には敵わないのかもしれない。
――ところが、夜12時。寒季は本当に帰宅した。
彩世は眠れず、ウォークインクローゼットで服を整理していた。出国に持っていくものを選ぶために。
「寝てないのか?」
港の潮の匂いを纏ったまま、寒季がそっと抱きしめる。
「自分でやらなくていい。明日、使用人にやらせればいいだろ」
彩世は彼の胸に顔を埋め、深く息を吸った。
ほのかに――香水の匂いがした。ごく薄いのに、確かに。
次の瞬間、強烈な吐き気が込み上げた。彩世は寒季を突き放し、洗面所へ駆け込み、便器に向かってえずく。
「どうした!? 胃か? 今すぐ病院――」
寒季が慌てて追ってくる。
抱き上げようとする彼を、彩世は手で制した。
「いい」
妊娠も、腫瘍も。吐き気を起こす。これから何度でも、もっとひどくなる。
「今日はちゃんと食べられなかっただけ」
口をすすぎ、鏡越しに寒季を見る。
「海辺に行ったの? 少し湿った匂いがする」
寒季は一瞬固まったが、すぐ平然と頷いた。
「うん。取引先があっちに用があって」
「そう?」
彩世は唇の端を上げる。眼の奥の涙を必死に堪えながら。
「港の花火、どこかの愛人に上げたのかと思った」
「何言ってるんだ」
寒季は困った顔だけ見せ、微塵も動揺を映さない。背後から彩世を抱き、首筋に軽く口づける。
「花火が見たいなら、明日でも上げに行こう」
彩世は眉を寄せ、腕の中から抜けた。
「いい。疲れた」
そのまま寝室へ向かう。
「あなたも早く寝て」
胃の痛みが増し、胸も刃物で掻き回されるみたいに痛かった。彩世は心の中で自分を罵る。新谷寒季が寂しがりで、浮気性だと薄々分かっていたくせに――真実を突きつけられた途端、こんなにも苦しいなんて。
ベッドに入る直前、彩世は問うた。
「寒季。私が松本凛をどれだけ憎んでるか、知ってるよね?」
「もちろんだ。あいつとあいつの母親がいなければ、お前の母親も――」
寒季の声が低く沈む。
「処理してほしいか? あの母娘を」
「私が望んだら……本当にやる?」
彩世は反射的に聞き返す。松本凛は、彼の子どもの母親だ。
「やる」
寒季は即答した。
「ただ少し待って。最近、会社が立て込んでて手が回らない」
「……分かった」
彩世は自嘲気味に笑った。
返事はするが、やるとは限らない。試しても、彼の本心には届かない。
だったら――消えるほうが早い。
翌日、寒季は約束通り彩世に付き添った。だが昼頃、電話一本で呼び出されて出ていく。
彩世は胸のむかつきを押し、昼寝でもしようとした、その時。松本凛が家に上がり込んできた。
「昨日ね、寒季が私の妊娠を知って、すっごく喜んだの。抱き上げて何回もくるくる回してくれた」
軽い声で、巨大なダイヤの指輪を見せつける。
「お姉ちゃん、プロポーズの時、こんな大きいのもらってないでしょ?」
あの頃の寒季はまだ裕福ではなく、彩世が諭して、ダイヤではなく金の指輪にした。
「彼、毎年こういうサイズを買ってくれるけど」
彩世はソファで淡々と松本凛を一瞥する。
「そんなに嬉しいなら、どうして離婚の話を私にしないの? あなたに名分を与えればいいのに」
松本凛の顔色が一気に変わった。
「あなたが新谷奥様の座にしがみつくから、寒季が困るの。でも私は機会をあげない」
歯ぎしりしながら吐き捨てる。
彩世は顎を少し上げる。
「それで? 何で脅すつもり?」
「お父さんが言ってた。あなたが大人しく言うこと聞けば、お母さんの遺品を渡すって」
松本凛は用意周到だった。
「ずっと欲しがってたでしょ? 手稿」
以前、寒季が松本家に圧をかけ、松本智徳はかなりの物を吐き出した。まだ残っていたのか。
「その代わり、あなたの“身につけてるもの”と交換」
凛の視線が、彩世の首元のネックレスに刺さる。
松本家に伝わるネックレス。祖母が彩世の首に掛けてくれたものだ。
彩世は口元を歪め、ネックレスを胸元から引き出して弄ぶ。
「これを手に入れないと、松本家の長女になれない。隠し子じゃないって証明にならない。そういうこと?」
「違う!」
凛は図星を突かれて真っ赤になった。
「手稿が欲しいなら、ネックレスよこして!」
強烈な香水と、その尊大さが彩世の胃を刺激する。彩世は立ち上がり、トイレへ向かった。
その背に、凛が突進してくる。ネックレスを奪おうと手を伸ばす。
彩世は咄嗟に防いだが、揉み合いの拍子に足を滑らせ、後ろへ倒れ込む。
背中が階段の手すりに――ドン、と鈍い音を立ててぶつかった。激痛で視界が暗転する。
「彩世!」
遠くから近づく寒季の声。次の瞬間、硬い腕が彩世を抱き上げた。
意識が揺れる中で聞こえたのは、泣きそうな凛の声。
「私、何もしてない……お姉ちゃんが転んで、私を陥れようとして……寒季……」
