第3章
「彩世、どうした? どこが痛い?」
新谷寒季の焦った声が、松本凛の声をかき消した。さっき彼女が呼んだ『寒季』という響きさえ、松本彩世には幻聴みたいに思えた。
彩世は痛みで言葉が出ないまま抱き上げられ、ソファに寝かされる。寒季が運転手に車を回せと命じたのを耳にした瞬間、必死に目を開いた。
「病院は……行かない」
「最近ずっと具合悪いだろ。診てもらったほうがいい」
寒季の声は、甘いほど優しい。けれど彩世は首を振った。
薄く開いた瞳で、寒季の肩越しに松本凛を見る。
「この前、親友の付き添いで病院に行ったとき……亡くなった人を見たの。トラウマで、もう病院は無理」
凛の顔色がさっと悪くなる。彩世を睨みつけ、肉でも抉りたいみたいな憎しみを隠そうともしない。
「分かった分かった、行かない」
寒季はすぐに彩世を抱き寄せ、宥めるように背を撫でた。
「少し様子を見る。もし悪化したら、その時に行こう。いい?」
彩世はようやく小さくうなずく。
しばらくして痛みが和らぐ。寒季が差し出した水を二口だけ飲むと、むかつきも引いていった。ゆっくりと身体を起こす。
凛はずっと横に立ったまま、口を挟む機会を狙っている。
「お義兄さん……」
やっと声を出した瞬間、寒季が冷たく遮った。
「何しに来た」
嫌悪と怒りを隠さない声。二人の間に情事があるなど、欠片も感じさせない。
彩世は表情を動かさず、二人のやり取りを観察する。
松本家とはとっくに決裂している。彩世が頼れるのは寒季の後ろ盾だけだ。だから、寒季が自分の前で凛にこの態度を取るのは不自然じゃない。
「わ、わざとじゃないの……」
凛は噛み砕いた言葉を飲み込むみたいに続けるしかなかった。
「お姉ちゃんと冗談で……まさか転ぶなんて」
「冗談?」
彩世は眉を上げる。
「母の遺品と、このネックレスを交換しろって? それが冗談?」
寒季の顔色が変わった。ぞっとする圧が立ち上る。
「俺の家で、俺の妻を脅すのか?」
「ち、違う! そんなつもりじゃ……!」
凛は怯えて泣き出した。
「お父さんが……そう言ったから……!」
「松本智徳に伝えろ」
寒季は薄く笑い、声だけを冷やした。
「彩世の母親の遺品がまだあるなら、全部出せ。出さないなら今年の2件の案件は潰す。松本家の会社も続けさせない」
帝都で、寒季が潰せない会社などない。指一本で終わる。どれだけ容赦がないかは、界隈では有名だった。
凛は脚が震えた。
「な、ない……もう何もない! 私が……ネックレスが欲しくて、嘘ついただけ!」
「ネックレスは捨ててもお前にやらない」
寒季は冷ややかに言い放つ。
「本当かどうかは関係ない。あとで人を出して松本家を捜索する」
命令を受け、執事が凛の腕を掴み、そのまま外へ連れ出した。
彩世は黙ってそれを見送る。胸の奥に沈むのは、乾いた皮肉だけ。
彼は迷いなく自分の側に立つ。なのに、どうして――あの時の約束だけは守れない?
今も偏愛は感じるのに、凛を妊娠させた事実を思うだけで吐き気がする。
「彩世、ごめん。これからは警備に言って、二度と入れないようにする」
寒季は抱き締め、優しく宥めた。
「今夜の家宴も行かない。家で付き合う」
「大丈夫。擦り傷よ。私、綿でできてないし」
彩世は痛みを飲み込み、笑顔の形だけ作って腕の中から抜けた。
「おじいさま、最近体調悪いんでしょ。顔見に行こうよ」
ソファから立ち上がり、淡々と言う。
「昼寝したい。あなたは先に仕事してて」
本来、寒季は書類を取りに戻っただけだった。それでも無理に家に残り、寝室で仕事をしながら彩世のそばにいた。
これまでは、彼がいるだけで彩世は安らげた。けれど今日に限っては違う。部屋にもう一人の呼吸があるだけで落ち着かない。やっと眠っても、悪夢が途切れなく続いた。
夜、二人は新谷本家へ向かった。
到着が早く、夕食の前に彩世は新谷爺様の部屋へ呼ばれる。寒季も付いて行ったが、追い出された。
「どうせまた彩世に子どものこと言うんだろ」
寒季は引かない。
「プレッシャーかけるな」
「私がいつ迫った?」
爺様は睨む。
「言い聞かせるくらい許されんのか」
「大丈夫です」
彩世は寒季に微笑み、任せて、という目で送った。
寒季はようやく扉を閉めた。
「寒季の出自が良くないのは知ってるな」
爺様はいつも通り、直球で言う。
「うちの愚かな次男が家を捨てて外で子どもを作った。家業を継げる者が他にいなかったから、寒季を呼び戻した」
彩世は淡く返す。
「新谷家がなくても、彼は若くして成功した経営者です」
「分かっている」
爺様は不機嫌を隠したまま続ける。
「だが、寒季の子がまた外で生まれるのは嫌だ」
彩世の胸がひやりとする。凛の妊娠を、爺様も知っているのか。
「私はもう歳だ。できることも少ない」
爺様は情に訴える口調に変えた。
「一族は人数が多い。継承権がなくても株は持っている。私が死ねば揉める。寒季に子がいないと厄介だ」
彩世はますます息苦しくなる。
「お身体はお元気ですし、寒季もまだ若いです……」
何度も否定するほど、爺様の機嫌は悪くなる。
「つまり、お前に選択肢は二つだ」
低い声が落ちる。
「寒季に外で女を作らせ、子どもを産ませる。それをお前の子として育てろ。あるいは――離婚だ」
「嫁いで3年、腹は動かない。痩せすぎだ。無理に体外受精をしても、いい子は望めん」
「寒季がどれだけお前を想っているか、私は見てきた。離婚しても面倒は見るだろう。寒季のためを思うなら、受け入れろ」
冷淡で現実的な言葉が、刃になって彩世の皮膚を削ぐ。
一緒に歩いてきたのは自分なのに、いつの間にか「釣り合わない側」になっている。
仕事も能力もないわけじゃない。ただ彼が、彼女を大事にして外に出さなかっただけだ。それなのに外から見れば、彩世は“産む道具”にしかならない。
「よく考えろ」
爺様はさらに言った。
「寒季は目も肥えてる。あの――」
言い終える前に、扉が乱暴に押し開けられた。
新谷寒季が、冷え切った顔で立っていた。
