第4章
鋭い視線が部屋を切り裂き、新谷寒季は大股で松本彩世のそばへ歩み寄った。長い腕が伸び、有無を言わせず彼女を抱き寄せる。
慣れ親しんだ広い胸の体温。――それでももう、彩世の心は安らがない。
「爺さん、越えてる」
新谷寒季の声は鉄みたいに硬く、上に立つ者の圧が滲んでいた。
新谷爺さんは面と向かって反発され、顔を曇らせる。
「寒季! 年上に何て口を――俺はお前のためだ。新谷家の未来のために言ってる!」
「俺の未来は俺が決める。『俺のため』を口実に、俺の結婚に口を出すな」
寒季は彩世を抱く腕に力を込め、爺様を真っすぐ見据えた。
「俺、新谷寒季の妻は――この先も松本彩世だけだ」
「お前……!」
新谷爺さんの胸が怒りで上下する。指を突きつけ、罵声を飛ばした。
「愚か者! 子どもも産めん女のために、新谷家を絶やすつもりか!」
「新谷家が、俺の妻を追い詰めてまで続くっていうなら――当主の座なんて要らない」
寒季は低く言い切る。言葉の一つ一つが、冷たい決意そのものだった。
「爺さんは本家で大人しく余生を過ごせ。俺の家事に口を挟むな」
そう言い捨てると、寒季は爺様の鉄青い顔も見ず、彩世を抱いたまま踵を返した。
最初から最後まで、彼は「妻のためなら世界を敵に回す」完璧な夫を演じ切っていた。
もし彩世が、あの妊娠検査の紙を見ていなければ。
もし松本凛の挑発を、耳で聞いていなければ。
この深情に、心を揺さぶられていたかもしれない。
けれど今は、背筋が凍るだけだった。
本家を出ると、夜風がひやりと頬を撫でる。
寒季はすぐ上着を脱いで彩世の肩に掛け、慎重に守るようにマイバッハの後部座席へ座らせた。
扉が閉まり、外の喧騒が遠ざかる。
寒季はボタンを押して仕切りを上げ、後部座席を密室にした。
振り返り、彩世を抱き締める。髪の頂に顎を乗せ、悔いるように囁いた。
「彩世、ごめん。今日は嫌な思いさせた」
彩世は彼の胸に額を預ける。雪松の澄んだ香り――その奥に、松本凛の刺す香水が残っている気がした。
胃の奥から強烈な吐き気がせり上がる。彩世はこみ上げを噛み殺し、黙ったまま耐えた。
寒季は彼女が落ち込んでいると思い、頬を包む。深い瞳に痛ましさが満ちた。
「爺さんは頑固なんだ。言ったこと、気にするな。な?」
彩世は睫毛を伏せ、眼底の冷えたものを隠して、小さく問い返す。
「もし……本当に、別の女があなたの子を妊娠してたら?」
「あり得ない」
寒季は一瞬も迷わず言い切った。
「俺は他の女なんて見ない。子どもなんてできるはずがない。彩世、俺の女は一生君だけだ」
甘い誓い。蜜を塗った毒。
彩世は心の中で、音もなく笑う。
他の女を見ない?
なら、松本凛の腹の子はどこから来たのか。
嘘が、ここまで自然で、ここまで堂々としていることが――もう笑える。
だが、今は破綻させる時じゃない。彩世は信じたふりをした。
「もう嫌なことは忘れよう」
寒季は優しく額に口づけ、背を撫でる。
「今夜は何もしない。仕事もやめる。家で映画見よう。君が好きな、あの古いの」
「……うん」
彩世は淡々と答えた。
その時、寒季が無造作に置いたスマホがぶるりと震え、画面が光った。
静かな車内で、その微かな音がやけに耳につく。
寒季の動きが、ほんの少し止まる。
彼は画面を一瞥した。たった一秒――それだけで彩世は、彼の眼底を走った焦りと心配を見逃さなかった。
次の瞬間、寒季はスマホを裏返し、眉を僅かに寄せる。
「どうしたの」
彩世は静かに聞いた。
寒季は眉間を押さえ、困ったように息を吐く。
「会社で緊急事態だ。北米の買収案件の法務が急に止まって、相手が撤資を匂わせてる。幹部が抑えられない。今すぐ会議に行かないと」
彩世へ向き直り、申し訳なさそうに。
「彩世、ごめん……」
彩世は何も言わなかった。
ただ、彼の完璧な顔を見つめる。完璧な罪悪感。完璧な演技。
真実を知らなければ、きっと騙されたままだった。
「急ぎ?」
声は風のように軽い。
「ああ。数十億が動く。放置したら会社が危ない」
寒季は身を寄せ、唇に柔らかなキスを落とす。
「運転手に家まで送らせる。君は風呂入って早く寝て。終わったらすぐ帰る」
彩世は避けなかった。けれど、応えもしない。
冷えた目で彼を見ているだけ。下手な芝居を眺める観客みたいに。
もう、暴く力さえ惜しかった。
「……分かった。行って」
彩世は視線を外し、窓の外へ向ける。温度のない声。
寒季の胸に不安が広がる。彼女の頬に触れようと手を伸ばし、柔らかく宥めた。
「彩世、これが最後だ。忙しいのが終わったら全部断って――」
彩世は僅かに顔を逸らし、触れさせなかった。
寒季は小さく息を飲む。
怒りもしない。拗ねもしない。――ただ、冷たい。
それがいちばん堪えた。
彼は心の中で決める。松本凛の件さえ片付ければ、必ず埋め合わせを、と。
ほどなく寒季は車を降り、別の車を拾った。
彩世は冷たい窓に額を預ける。車内の暖気でも、骨まで染みた寒さは消えない。
彼は松本凛のところへ行く。
破れない言い訳を掲げて、妊娠した女を宥めに。
彩世はゆっくり目を閉じた。
昔は、隣の市への出張ですら寂しくなって、夜通し戻ってきた男だ。ただ数時間、抱いて眠るためだけに。
いまは数キロ先の車の中にいるのに、心は万里の彼方。
愛が消えるのは、こんなふうに音もなく――ただ、痛い。
膝の上で手を握り込み、爪が掌に食い込む痛みで意識を繋いだ。
出る前に、やるべきことが一つある。松本凛の言葉が思い出させた。
「太田さん」
彩世は淡々と言う。
「引き返して。松本本家へ」
